「最高で究極のもの」よりも「用途別」のほうが役に立つ法則。
なんでもそうですが、「究極」とか「最高」を求め始めると、迷走しはじめる。
なぜなら、生きることはいつでも「具体的」だから。
なにかを創るとき、ついついリキんでしまうと「最高」や「究極」や「ベスト」を求め始める。
しかし「最高」や「究極」を求めるのは「絶対的なものがある」という価値観を前提にしているからだ。
けれども、この世は「相対的」で、「絶対」はない。
だから「究極」や「最高」を求めると、混乱してしまうし、場合によっては「争い」を生む。
たとえば、ぼくの専門でいうと、
「最高の立ち方」とか
「究極の歩き方」
というのはない。
その代わりに
「アウターマッスルがゆるむ立ち方」とか
「センターマッスルを活性化する立ち方」というのはある。
どっちが「最高」ではなくて「用途」によって使い分ける。
「骨盤の位置」とかもそう。
「ここにあればバッチリ」という場所はなくて、自在に動くことが大事。
「何がしたいか」による。
「気持ちを落ち着かせる呼吸法」や
「気分を高める呼吸法」はあるけれども、
「最高の、究極の呼吸法」というものはない。
目的による。
「家でやるセルフケア」や「人前でもバレないようにできるセルフケア」はあるけれども、優劣はない。
ってな感じで、あるモノは「用途」が分かった時に、とつぜん価値が生まれる。
それでね、ハラ生き道の「価値」なんだけど、つまりどんな人に合うかって話なんだけど、
メインは
「自信のない人」
「自己否定の強い人」
「もっと気楽に生きたい人」
なのね。
でも、そういう人を救う方法はたくさんあるの。
自己啓発のセミナーだったり、心理セッションだったり、カウンセリングだったり、はたまたスピリチュアル占いだったり、星読みだったりタロットだったり。
そのどれも素晴らしい。
その中で「ハラ生き道」というのは、いつでも「からだから考える」んだよね。
そして「勉強ではなく実践」「学びよりも遊び」「思考よりも感覚」
そういう体系になってる。
だから
「難しいことは苦手」
「ボディにアプローチしたら変わりそう」
「からだの土台や芯を整えて、こころもどっしりさせたい」
そう考える人にはバッチリなんだよね。
ぼくらは肉体がなくなったら、地球にはいられないからね。
「からだ」から感情も生まれるし。
「からだ」で愛し合うし。
「からだ」を大切にするとは、どういうことか。
「からだ」をちゃんと(設計通りに)動かすとはどういうことか。
じぶんの「からだ」をちゃーーんと観てあげて、愉しく使う。
ハラ生き道っていうのは、そういうあり方です。
ピンときた方はどうぞ♪