「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「続けられない人」は、ただ傷ついているだけ。

前回記事はコチラ。

 

ゆるみたいけど、怖い。

 

怖いけど、ゆるみたい。

 

そんな気持ちのせめぎ合いのなかで、ぼくは揺らいでいました。

 

 

そこには「好きを愉しんではいけない」という強固な思い込みがあったのです。 

 

 

じぶんでは「好きを愉しんでいる」つもりだったんですよ。

 

そして「やりたいことをやっている」つもりでした。

 

 

でも実は出来ていなかった。

 

ぼくが「愉しさ」だと感じていたのは「努力のあとに感じる有意義感」であり「自己否定を埋めるための頑張り」だったのです。

 

 

それこそが「対価の世界」「ギブ&テイクの世界」のあり方の象徴なんですね。

 

 

「がんばったから、ご褒美」

 

「努力して成果が出たら喜ぶ」

 

「達成感に酔いしれる」

 

ぼくのなかには、このドーパミン的コンセプトが根深く横たわっていた。

 

そしてこの「2元の世界」から抜け出すために「がんばる」という本末転倒なことをしていた。

 

「からだをゆるめるために頑張ります!」とリキんで、それが「健康のためには死んでもいい」的な滑稽なことになっていることに気が付かなかった。

 

「ゆるまなきゃ、ゆるまなきゃ」と焦っていた。

 

「あいつより、ゆるみたい!」

 

「ゆるむぞ、ゆるむぞ!!」

 

と傍からみたらおかしな状態でも、自分では気づけないものです。

 

 

でも、違ったんです。

 

「ゆるむ」とは、そういう努力を一切やめることだったんです。

 

そして「ゆるみたい」ということにフォーカスするのをやめることでもあったのです。

 

「ゆるみたい」イコール「いま、私は固まっていてダメな状態」という前提を強化してしまう。

 

 

だから「ゆるみ」が進んでいかないのです。

 

 

違うのですよ。

 

「ゆるむ」というのは結果的に起こることなのです。

 

じゃぁ、何の結果として「ゆるむ」のか。

 

 

それこそが「好きにフォーカスする」ということだったのです。

 

ハラ生きは2元の相対の世界じゃなくて「ひとつ」の絶対の世界です。

 

 

だから、何かの代償として「好き」を得るというのではない。

 

そうじゃなくて「ただただ、好きを受け取る」ということなのです。

 

「ただただ、”興味”にしたがって行動する」

 

そこに努力感はありません。

 

 

「やりたいからやる」

 

それだけです。

 

 

で「好き」だから、勝手に続いてしまう。

 

別に「続けよう」っていう意識もいらないんです。

 

「好き」だから、ついやってしまう。

 

 

つまり「力【エネルギー】があるから、つい継続してしまう」というのが真理なのです。

 

 

それに対する「興味」もなく「気(エネルギー)」も枯渇しているのに、ふんばって努力をしても「結果」にはつながりません。

 

「興味」に従うからエネルギーが通る。

 

エネルギーが通るからこそ、勝手に続いてしまう。

 

 

だからこそ「続ける」ということを目標にしてはいけないのです。

 

「何年間と1日も休まずブログやメルマガを書いてきた」という自慢をよく見ますが、別に凄いことでもなんでもない。

 

ぼくはそれよりも、「瞬間瞬間にやりたいことやっている人」を尊敬する。

 

やりたくなったらやり、やめたくなったらやめる。

 

非常にシンプルでしょう?

 

「決めたことを変えない」のも結構ですが、人は変わっていく生き物です。

 

3年後どころか1か月先の気持ちだって分かりません。

 

興味も移り変わっていきます。

 

努力で無理くり続けるのは不自然なことだし、自然なカタチで続けているのなら「やりたいことをやっているだけ」だから褒めることでもない。

 

つまり凄いことじゃないんです。

 

 

ってことはですよ・・・

 

 

続く↓

 

center-muscle.hateblo.jp