「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

継続するから力がつくんじゃない。力があるから継続できるんだ。~続かないあなたへ~

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「継続は力なり」

 

このことわざを、現代語にしてみると

 

「継続は力である」

 

という意味になる。

 

 

これは一般に「継続することで実力がつく。だからサボらず努力すべし」みたいな意味に捉えられていると思う。

 

 

だからこそ、「努力家」の人は「1日もサボらず」、毎日毎日、義務をこなしたりする。

 

 

それで、そういう「努力」を続けるのは「偉いこと」で、そういう「努力」が出来ないのは悲しいことだとされている。

 

 

この変な「思い込み」のせいで苦しんでいる人がいる。

 

そう、「継続できない人」だ。

 

 

「私は継続できないからダメなんだ」

 

「努力が足りないんだ」

 

「3日坊主になっちゃう…」

 

そうやって、また自分を責めてしまう。

 

 

でも、それは違うのだ。

 

根っこの考え方からズレているんだ。

 

「継続は力なり」の解釈を間違えてしまっている。

 

 

 

そもそも「1日も休まず努力」みたいなのは要らないのです。

 

もちろん「1日も休まず努力」してもいい。

 

ただ、それは「1日も休まず努力」するのが好きな人が勝手にやればいいことです。

 

 

「毎日、継続して努力すること」

 

これは趣味の問題であり、人間の価値とは何の関係もありません。

 

 

実を言えば、ぼくがもともと

 

「継続的に努力できる人」

 

だったのです。

 

 

学生のころから、多いときは1日3時間以上、社会人になっても1日30分は「からだをゆるめる」ということを続けてきました。

 

それで会社の同期からも「ストイックな人」だと見られていました。

 

 

ぼくがそういう「努力」を出来たのは、潜在的な自己否定感がとても強かったからです。

 

なにか努力して、はじめて僕には価値がある。

 

そう内心で思っていたから「努力」が苦ではなかったのです。

 

毎日がんばっている自分を褒めてあげたい気持ちでした。

 

 

その反面、「努力が出来ない人」が大嫌いでした。

 

努力もしないで人生楽しんで、ヌクヌクしている人。

 

すぐサボってしまう人。

 

続けられない人。

 

 

そういう人を嫌悪していました。

 

 

でもそれは、全部ぼくの「なりたい像」だったのです。

 

がんばって努力していたので、潜在的にはそれをやめたかったのだと思います。

 

 

それは整体院を開業してからも続いていて、「努力」つまり「がんばって仕事をすること」だけに価値を置いていました。

 

 

じぶんの気持ちがどうとか、そういうことを感じる前に、とりあえず「仕事っぽいこと」をしていないと不安でたまりませんでした。

 

 

そんなぼくが「ハラ生き」に出会い、だんだんとカラダが本質的にゆるんでくると、「努力」をするのが苦痛になってきました。

 

ぼくは焦りました。

 

「以前みたいに努力できない。どうしてしまったんだ俺。ぜんぜんダメじゃないか」

 

「こんなことでは、嫌悪するサボり野郎やダメ人間になってしまう」

 

「もっと努力しなきゃ。置いていかれる。ヤバい。でも頑張れない」

 

そんなジレンマに悩まされていました。

 

 

いま思えば、ゆるみたいけど怖い。怖いけどゆるみたいという気持ちのせめぎあいの中揺らいでいたんだと思います。

 

続く↓ 

 

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