「こんなに幸せでいいのかな?」って不安になるときは。
そもそも「幸せ」というのは、とっても不安なものです。
それは、そこに自由があるから。
ぼくらは、重力という「縛り」があったほうが気が楽で、とつぜん宇宙空間という「自由」に放り出されたら、とても不安になるのです。
ぼくらは生きてくるなかで、「ただただ幸せであっていい」ということを教育されていません。
むしろ「幸せには代償が必要なのだ」ということを、十分に植えつけられて育ってきます。
その洗脳のせいで、「ただ幸せである」ということは、とても怖いのです。
何かを引き換えにした幸せを手にすることはできても、「ただ幸せである」ということには抵抗してしまう。
ある意味、それが現代の「ふつう」です。
「ただ幸せである」ということを手にしようとすると、「何かを犠牲にして幸せを手にしている人」から叩かれます。
「ただ、幸せなんてズルい」
「あなたも代償を支払いなさいよ」
「わたしは、こんな犠牲を払っているのに」
と嫉妬されるわけです。
そのときに、じぶんのなかに「こんな、ただ幸せでいいのかな」という一抹の不安があると、
ついその意見に影響されてしまいます。
「たしかに、ズルいかも…」
「こんなに幸せだと、あとから代償を支払わされるかも」
「いつかバランスを取るために不幸になるかも…」
と。
そんなとき、アタマの思考に引っ張られてしまうと、ちゃーんと「不幸」を呼び寄せるのですね。
そして「安心」するのです。
「これで、わたしもみんなの仲間だ」
「やっぱり、ちゃんとバランスが取れているのよね」
「やっぱり、私には”この程度”がお似合いね」
と。
そして、いつもの「不幸」に落ち着いてしまう。
いつもの「じぶん」に戻ってしまう。
でもそれって、ハラが望むことじゃないんだよね。
ハラが望むのは「無条件の幸せ」。
つまり代償も引き換えもない、「ただ単なる幸せ」。
そこにいくには
「こんなに幸せでいいのかな?」を乗り越える必要があるのです。
じゃぁ、こんなときどうすればいいのか。
それが
「ゆっくりと息をして、からだを慣らす」
ことなんです。
「うわー、幸せすぎる。こんなに幸せになっていいのかしら?」と不安がよぎった瞬間に、
「ふーーっ」と息を吐いて、不安の感情をぜーーんぶ感じきってみます。
「ああ、幸せが怖いんだな」
「ああ、これまで幸せを制限していたからだな」
「それだけ虐げられてきたんだな」
「よくがんばってきたな」
と、よくよくじぶんを褒めてあげます。
そこから、がんばってはいあがってきたじぶんと、それを助けてくれた周りの人に「ありがとう」を伝えていきます。
「ありがとう。ここまで幸せになれたよ」
「ありがとう。今はとても幸せだよ」
「ありがとう、ありがとう・・・」
と。
そこまで感謝があふれるカラダになったとき、きっと不安は消えているでしょう。
というのは「不安」というのは、感謝不足のときに起こるからです。
「こんなもの受け取っていいのかな?」
「悪いな」
「わたし、何もしてないのに…」
この「引け目感」というのは、感謝にフォーカスできないときに起こるのです。
だからこそ、「ありがとう」というキーワードが、受け取りスタートのサインになるのです。
(「ありがとう」を連呼して、いいことを起こそうとするのとは別です。)
今まで幸せに慣れていない人が、急な幸せに不安になるのは当然です。
人は変化を嫌うし、それが急であればあるほど違和感を感じます。
だから、それは正常。
ただ、その不安に引きずられないことが大切なのです。
そのためには
「ふーっと息を吐いて、ハラを開いて、ここまで来たじぶんを褒めて、ここまで来れたありがたみを十分に感じること」
です。
カンタンにいえば、「からだをゆるめること」ですね。
つまり
「幸せになる→不安になる→からだをゆるめて慣らす→さらに幸せになる→また不安になる→からだをゆるめて慣らす→…」
という永遠のプロセスを愉しむことです。
だからこそ、「からだをゆるめる」ということがなにより大事なのです。
「からだをゆるめるメソッド」は、こちらでたっぷり公開しています。