使命なんていらない。もしあるとすれば「目の前の人を幸せにすること」だ。
あなたが、何をしていようと関係ない。
どこにいようと関係ない。
ただ、ただハートとハラを開いて、目の前の人を迎え入れること。
それだけがぼくらの使命だ。
大それた夢も目標もいらない。
ワクワクもいらない。
ただただ、目の前の人の「やわらかくて弱いところ」にアクセスしていく。
それが世界平和の基礎だと思う。
「何を」するかじゃない。
「どうやって」やるかなんだ。
あなたがハラを開いて笑顔で接すれば、それだけで救われる人がいるでしょう。
あなたがハラを開いて声をかければ、それだけで生きる意味を持つ人がいるでしょう。
あなたがハラを開いてタッチすれば、それだけで勇気が湧いてくる人がいるでしょう。
いったい、ぼくらのいのちは、どれだけのエネルギーを持っているだろう。
たとえば、こんなブログひとつの言葉が、いのちに喜びを添えることがある。
たったひとつの旋律が、心の奥深いところに寄り添うこともある。
ひとひらの絵画が、魂の奥まで、打ち震わせることがある。
「そんな力は、じぶんにはないよ」
「わたしがやっても、影響を与えないよ」
「そういうのは、”スゴイ人”がやればいい」
そうやって「じぶんの凄さ」から、いつまで逃げ続ける気なのか。
「自分なんて大したことない」
そうやってじぶんを見くびるのは、じぶんのハラを開く勇気がないからだ。
いつまでもじぶんのなかに閉じこもっているための言い訳として、
「わたしには無理」
なんてごまかしているだけだ。
あなたがハラを開けば、あなたの目の前の人は輝きはじめる。
そして、その輝きに照らされて、おのずと「じぶん」も輝いてしまうんだ。
あなたは今日、どんな人に出会うだろう。
その問いはすなわち「あなたは今日、どんな人を幸せにするだろう」という問いなのだ。
あなたの何気ない笑顔が、あなたのさりげない会釈が、誰かを幸せにする。
「そのバッグ、素敵だね」
「あ、髪型変えた?」
「ネクタイ、似合ってるよ」
たわいもない一言で、あるいは人は一日中幸せになれる。
ムスっとしてる人、無愛想な人、冷たい人…
みんな恥ずかしくて、人とつながるのが怖いだけなんだ。
なのに、周りに誤解されていたりする。
だからさみしくて、さらに意固地になって笑顔もなくなってくる。
でも、その人の「赤ちゃんの部分」にアクセスすることさえできたら、その人はなにより救われるんだ。
「不機嫌は最大の罪である」なんて偉人の言葉を使って責めてみたって、誰も変わらないよ。
それよりも「そんな日もあるよね」って共鳴していける感性を持つこと。
それが「ハラを開く」ということなんだ。
さぁ、今日は誰に出会うだろう。
今日は誰を幸せにできるだろう。
そんな祈りが目の前から世界中に響くとき、どうしようもない幸せが降り注いでくると思うんだ。