「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「ヤリたい」のか「マモりたい」のか、それが問題だ。

モテない男というのは、いつでも「ヤリたい」のです。

 

けれどもモテる男というのは、「守りたい」ものなのです。

 

 

ぼくは最近おもうのです。

 

「いのち」というのは、誰かを守るために生まれてくるのではないのかと。

 

 

「守る」というのは、相手のハラにアクセスすることです。

 

「守る」というのは、相手の子ども心に話しかけることです。

 

「守る」とは、相手を包み込み、認め、ゆるすことです。

 

 

 

現代社会では、あまりにも「守られていない」人が多いのです。

 

つまり、ほとんどの人が、程度の差はあれ、「小さいころに傷つけられ」います。

 

 

それはそれで仕方ないのですが、子どもはとにかく自衛の手段がなく、とるもとりあえず外側の筋肉を固くして、感情などなかったことにして、「オトナ」になっている人が多いのです。

 

 

やわらかいものを隠して、硬いもので覆う。

 

 

それがオトナなんだと、勘違いさせられてしまっているわけです。

 

 

それで「守られなかった人」は、「守られたい」という思いを抱えて生きることになります。

 

 

それがぼくのよく言う「わかってほしい気持ち」なのです。

 

 

「わかってほしい気持ち」が強いオトコは、

 

「ぼくのすべてを受け入れてくれ」

 

というふうに思う。

 

 

「ありのまま」を都合のよいように解釈して、

 

「ワガママを全部うけいれてほしい」

 

「じぶんは楽をして、ただただ愛されたい」

 

「自分の思い通りの人になってほしい」

 

そういうふうに考えていくわけです。

 

 

その発想が集約されたセリフが

 

「ヤりたい」

 

なわけです。

 

 

 

一方、「わかってほしい」をちゃんと完了させた人は、

 

「わかってあげたい」の段階にシフトします。

 

それこそが「アタマ生き」から「ハラ生き」へのシフトでもあります。

 

 

 

で、この「わかってあげたい」というのは「あなたのハラにアクセスしたい」なんです。

 

 

それは「あなたのなかの子どもを包み込みたい」でもあります。

 

 

これが集約されると「守ってあげたい」というフレーズになるのです。

 

 

 

人は「守ってもらう」と、守ってくれた人を好きになります。

 

 

それが恋愛である場合もあるし、そうじゃない場合もあるのですが、とりあえず「好意」を持ちます。

 

 

で、本来はそのあとに場合によっては肉体的なセックスというものが起こります。

 

 

けれども肉体のセックスの前に、もうエネルギー交流がはじまっているのです。

 

 

 

しかし「ヤりたい」の場合は、事前のエネルギー交流がなくて一方通行なのです。

 

その一方通行さは、相手を、そしてじぶん自身をさらに傷つけてしまう。

 

 

 

だから、なんとかして「守りたい」意識にシフトしたいのです。

 

けれどもこれを強引に行うことは適わない。

 

 

「守りたい」意識にシフトしたいなら、まずは「じぶん自身のハラ」にアクセスすることが大切なのです。

 

 

じぶん自身のハラを充分に守っているからこそ、他人のハラを守ることができるのです。

 

あなたが守るべき人を守ることができたとき、そこに言いようのない幸せがあります。

 

 

さぁ、もしあなたが自分のハラを大切にできたとき、あなたは誰を「守りたい」ですか?