「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

依存に対して愛を持って見つめられるようになったとき、自立が完成する。

「コミュニケーションがうまくなる本」なんかを見ていると、

 

「こんなコミュニケートの仕方がいい」

 

「これこれこういうふうに、伝えたほうがいい」

 

「これが自立した人どうしの会話」

 

みたいなことが、まるで真理であるかのように書かれていたりする。

 

 

いや、たしかにそれは真理なのかもしれない。

 

 

けれども、その「法則」を他人に適用しようとしたとき、「真理」は一気に崩れ去ってしまうのだ。

 

 

 

一般的に「愛」が語られるとき、たとえば

 

「依存は愛ではない。それはただの執着なのだ」

 

というように書かれていたりする。

 

「あなたがそれを所有しようとするから嫉妬が生まれる。愛とは所有ではない」とか。

 

 

たしかにそうなのかもしれない。

 

でもその法則は、あくまで「わたし」に当てはめるものであって、「誰か」に採用するものじゃない。

 

 

けれどもぼくらは、

 

「それは執着だよ。愛じゃない」とか

 

「ほんとうの愛とはゆるしであって、束縛することじゃない」

 

というようなセリフを「誰か」に対して容易く吐いてしまう。

 

 

そんなとき、「わたし」は一体どんな状態になっているだろうか。

 

 

「それは愛じゃない。執着だ」

 

と「愛のかたち」を批判しているとき、その人じたいが「ほんとうの愛」に執着しているのだ。

 

 

 

「愛は束縛じゃない。ゆるしなんだ」と「誰か」に言うとき、その人は「ゆるし」という考え方に束縛されている。

 

 

 

その法則にしたがっていくと、

 

「あの人は依存系だね」

 

とジャッジするとき、そこには「依存はよくない」という視点に依存している。

 

 

 

ぼくは、そういうことをずっとしてきた。

 

ぼくら夫婦のなかで、「ぼくは自立系、妻は依存系」という傲慢な考え方があった。

 

 

そして、妻の「依存系」さえ治れば夫婦関係がもっとよくなるのに、という非道な思いがあったのだ。

 

 

 

けれども結局それは、「こうあるべきコミュニケーション」に捉われていただけだったのだ。

 

 

それも本で読んだだけの「正しいコミュニケーション法」を、誰しもがするべきだという、おそろしい思い込みに捉われていたのだ。

 

 

「なぜ、妻は人間としてあるべきコミュニケーションができないのか。それは虐待を受けていたからだ。幼少時の愛情不足で、マトモなコミュニケーションができず、依存系の会話になってしまう。だから、親をゆるすことだ。依存系から抜け出すには、親をゆるさなきゃダメだ」

 

ぼくは、そんなクソくだらない分析を妻にあてはめていた。

 

そしてそれを「いかにすれば治せるか」というために、いろいろ工夫していた。

 

 

自分の依存のことなど、まったく棚にあげて。

 

 

けれどもぼくこそが、真の依存系だったのだ。

 

 

しかも、非常に顕在化しにくい「自立系依存」「隠れ依存症(=隠れイゾシタン)」だった。

 

だから自分でも、なかなか気が付けなかった。(あるいは気が付きたくなかった)

 

 

 

そもそも、自分に向けられるものが「ほんとうの愛(ハラ的)」なのか「依存的な執着(アタマ的)」なのかなど、どうでもいいことなんだ。

 

 

「ほんとうの愛」は、つまるところ自分の中にしかない。

 

 

自分の中に「ほんとうの愛」がない状態で、他者から自分に対して「ほんとうの愛」が向けられることはない。

 

 

けれども面白いことに、自分が「ほんとうの愛」状態であるとき、自分に向けられるものすべてが「ほんとうの愛」として感じられるのだ。

 

 

批判や非難、攻撃、中傷・・・。

 

 

それはすべて「アタマのなかで起こったできごと」だ。

 

自分を批判し、非難し、攻撃し、中傷しているとき、そのような出来事が起こる。

 

 

自立というのは、それらを「ほんとうの愛」だと感じられるときだと思う。

 

 

はっきり言って、ぼくはそんなレベルではない。

 

 

けれども、「そんなふうになったら愉しそう」と、怒りながら、悲しみながら、「いまのおぜっきー」のままで、伸びしろを愉しもうと思う。