「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

誰かの”サイレント”に寄り添うとき、じぶんのノイズが消えていく。

サイレントに寄り添う。

 

サイレントとは「黙り込むこと」と定義しよう。

 

たとえばケンカしているときに、目の前の人が黙り込む。

叱っている相手が、言葉を発さなくなる。

一言も発さない、引きこもりの子。

 

そういう状態や人のことを「サイレント」と定義してみる。

 

それから

 

メールの返事がない。

無断キャンセル。

音信不通

 

こういうのも「サイレント」に含むとしよう。

 


目の前の人が「サイレント」になると、
そこにコチラ側の「思い込み」が現れる。

 


たとえば、

「私を無視している!」とか

「話さない作戦なのね!」とか

「人間としておかしい!」とか

「口があるんだから話せるだろ!」とか

「連絡しないなんて失礼だ」とか

 

「イラっ」としたり「ムカッ」としたりして

 

「無視してはいけない」

「話さなければならない」

「常識とは〇〇」

 

などなど、その人の思い込みが全部出てくる。

 

それで、つい自分を棚にあげ「サイレント」の人を責めたくなる。

 


けれども、そのサイレントの内側では
さまざまなエネルギーが渦巻いているのだ。

 


たとえば

「怖いよ、怖いよ」
「なんてい言っていいか分からない…」
「どうしたら怒られないだろう…」
「何にも言葉が出てこない。真っ白…」
「どうしよう…」


そんな心のうごめきが、
かならず内部にある。

 

けれども、雑音まみれの「noisyなこころ」が通常な人は、そのサイレントがゆるせない。

 

「信じられない」「ありえない」と感じる。

 


そこにはちょうど
対称のバランスがある。


わたしがnoisyなとき、
silentな人が現れる。

 

そして私がsilentになったとき、

noisyな人が現れる。

 

 

それは
「じぶんの中の、反対の側面をゆるせ」

というサインでありメッセージなのです。

 


silentな人にムカっとくるのならば、
それは、じぶんが今noisyになっていることを
示しています。

 

  

ぼくはどちらかというとnoisyなほうなので、

silentの人の気持ちが分からなかったのです。

 

 

でもFacebookでこんなコメントをもらって

ハッとしました。 


単に、、怖いんですよ。普通のメール、今でも一番怖い。まんじゅうより怖いw


(中略)初対面の人は面食らうだろうなぁ。

 

 

 

他人軸のくせに、恐怖が行き過ぎて「連絡をしないと周りが心配する・迷惑がかかる」という考えが出てこない。だから傲慢なのですよ。

 

《誰かが急にいなくなるor連絡がとれないと、人は慌てる》という現象を理解したのは、私の場合20代も半ばを過ぎてから・・・これまじです。

 

内心、どーでもいい私がいなくなっても、虫ほどの存在感もないだろう、むしろその場にいない方がうまく回るだろう、もしかしたら“みんな“喜んでいるかもしれないくらいの自己否定。私はそこに無いほうがいい、それが当たり前だ。そのくらい病んでました。

 

 

ついでに言えば、学校や近所で、しょっちゅう行き違う人、私がその人の顔を覚えているということは、その人も私の顔を覚えていると認識したのも20歳過ぎてから。

 

 

このコメントが、本当にありがたかった。

 

「そうか、そうだったのか!」

 

これまでサイレントだった人に、

 

「分かってあげられなくて、すまなかった」とめっちゃ思った。

 

とくに

 

どーでもいい私がいなくなっても、虫ほどの存在感もないだろう。

 

むしろその場にいない方がうまく回るだろう。

 

もしかしたら“みんな“喜んでいるかもしれないくらいの自己否定。

 

私はそこに無いほうがいい、それが当たり前だ。 

 

の部分はグッときました。

 

 

それは、悲しいよ。

 

でも、「そういう扱い」をされてきたんだよね。

 

だから、そう思ってしまうのも仕方ない。

 

けれど、あなたを大切に扱いたい人もいる。

 

だからこそ、「サイレント」な態度を取られると、こちらも悲しくて傷ついてしまうのだと。

 

 

でも、ぼくはnoisy側の人間として肝に銘じておきますよ。

 

サイレントの状態とは「おびえている」状態なのだと。

 

 

そして、その状態をじぶんにも相手にもゆるす。

 

それによって、さらにじぶん自身が自由になれるのだと。

 

 

ほんとうに、自分と違うタイプの人の気持ちは分からないものですね。

 

 

けれども、よくよく探してみると、ぼくにもサイレントなときがあって、しかもそれを「ないこと」にしているのですね。

 

「言いたいことは言葉にしてちゃんと言っている」とアピールしている。

 

 

でも、誰しも言葉にできずに詰まってしまうときはあるのです。

 

それを包み込むのが、ハラなんだろうなぁと改めて思いました。

 

コメントくださったMさん、本当にありがとうございます。