「修業」や「練習」に逃げてると変わらないんだよな~。
「おれは、まだまだダメだー。」
「もっと修業・練習してからでないとー。」
パッと聞くと、どこか謙虚で真摯な姿勢にも思える。
けれども、実際には「修業」や「練習」というのは逃げに使われることが多い。
ここでいう「修業」とは、「誰にも邪魔されない場所で練習すること」だ。
たとえば、歌を歌うということ。
人前で歌う前に、誰にも見られぬように練習する。
もちろん、それは悪くない。
けれども、「人前に出ること」を避けるために「練習が足りない」という言い訳をすることがある。
そのためには「練習をしない」必要があって、そのためには「やる気が出ない」必要があったりする。
なのでエゴの言い訳としては
「やる気が出なくて練習していないので、人前で歌えません」
ということになるわけね。
それでエゴは人前で歌わなくてよくなりホッとする。
そしてハラは歌えないことでフラストレーションがたまる。
「練習」という意味は「失敗してもいい」なのです。
だから「練習」は、どれだけ大変でも、実はプレッシャーが少ない。
だから、ハラが喜ばない。
ハラが喜ぶのは「失敗できない本番」です。
「失敗できない本番」で「失敗してもいい」という覚悟が決まったとき、ハラが動きはじめるのです。
だから「失敗してもいい状況」で失敗しても度胸もつかないのです。
武道の達人の本に
「練習は本番のように。本番は練習のように」
という名言があり、言い得て妙だと思いました。
つまり「練習」というのは「本番」のように緊張しなければ意味がないのです。
そして「本番」は「練習」のようにリラックスして臨めと。
禅の言葉に
「動中の工夫、静中の工夫に勝ること数千億倍」
という言葉があります。
静中の工夫とは、座禅です。
動中の工夫とは、掃除や食事、托鉢など。
つまり、
「座禅もいいけど、食事やそうじのときが、いちばんの修行になるよ」
っていうことなのです。
これをざっくり言い換えると「実践」になりますね。
たとえば、瞑想なんかの練習では「邪魔が入らないように」準備をしますが、「実践の場」では邪魔ばかりですね。
だから、「邪魔が入らないように」瞑想を練習するのもいいけど、「邪魔ばかりの世界」で、瞑想的に生きるほうが修行効果が高いということです。
しかも数千億倍。
そしたら「動中の工夫」をしたくなりますよね?
なんせ「数千億倍」ですから。
ハラ生きメソッドは、家で一人でできる「静中」系の技法もありますが、「動中」系のメソッドがとても多いのです。
ふだんの所作を整える。
ふだんの意識のあり方を整える。
ふだんの、人とのコミュニケーション・向き合い方を整える。
ハラ生き道では、こうした「動中」系のワークを重視していますが、
「つい日常では忘れちゃうんですよねー」
というのは
「実践したくないんですよねー」
ということなのです。
そういう人は、ほとんど変化しないのですが、もちろんそれはそれでありです。
結婚すると、時間がなくなります。
ぼくも独身のころは毎日30分四股を踏んでみたり、学生のころなどは一日3時間くらい「修業」していたこともあります。
(20代前半までは、旅行先でも四股踏んでました)
けれども、結婚して子供ができると、とてもじゃないけど、そんな時間がないのです。
一時は、そのことを嘆いたのですが、それは間違っていました。
「時間が無くなった」のは、
「もう【修業】はやめて【実践】に移りなさい」
ということだったのです。
瞑想してじぶんを静かな状態にしているヒマがあったら、子どもと遊びながらザワつく心を観察しておればよいのです。
もちろん片岡鶴太郎さんのように、一日の大半を「修業」に費やしてもよいのです。
ただ、それは「趣味」なのです。
鶴太郎さんは、修行が愉しくて仕方ないのだと思います。
それで奥さんよりも修業を取った。
ただ、ぼくは寂しがり屋なので、修業よりも家族を取りたい。
そして妻や子どもと触れ合うなかで、ハラ生きを実践していけば充分すぎる修業になるのです。
「あともうちょっと練習してから」
という人は、だいたい本番をやらない。
ずっと「あともうちょっと練習させて」の状態を保っている。
そのうちに、下手くそのころからバンバン本番に出ている人に抜かされたりする。
中島敦の「山月記」なども、まさにその話ですね。
詩人になりたかったが、プライドばかり高くて、その詩を公表して批評されるのが怖かったため、けっきょく日の目を見ることはなく、
ついには虎になったと。
その虎とは
「虚栄心であり、失敗を恐れる恐怖心であり、持ち上げられ浮足立って膨れ上がった自尊心」
なのです。
そんなモンスターの頭を散弾銃で仕留めたいものです。
ぼくらは一瞬一瞬が本番なんだ。
だから、こっそり家でハラ生きメソッドを使っても仕方ない。