「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

あなたの「酷すぎる!」は、誰かの一生懸命かもしれない。

じぶんの「当たり前」を世界の当たり前だと思わないこと。

 

それが、幸せのコツなんだと思う。

 

「当たり前」は、人の数だけある。

 

だから「これは当たり前でしょう?」という話はしないに限る。

 

 

 

不平不満を抱えるあなたは、誰かに対して

 

「酷すぎる!」

 

という評価をしているかもしれない。

 

 

 

誰かが作った料理。

 

センスのないプレゼント。

 

適当な仕事ぶり。

 

ダンナの態度や言動。

 

上司からの無茶ぶり。

 

店員の不愛想なふるまい。

 

デートのための彼の服装。

 

 

 

それらに対して、あなたは「酷すぎる」と感じているかもしれない。

 

そして、それをなんとか直してもらおうと思っているかもしれない。

 

 

けれども。

 

 

けれども、ここで少し止まって考えるのも一興だ。

 

 

「もしかしたら、あれでも一生懸命なのかもしれない」

 

と。

 

 

ぼくらは、じぶんのレベルが高いとき、相手にも同じレベルを求めるものだ。

 

というよりは、

 

「じぶんができるのだから、相手にもできるだろう」

 

と無駄な期待をしてしまう。

 

 

 

しかし実はこれは「自己評価」が低いために起こる問題なんだ。

 

「じぶんは、これに関してレベルが高い」

 

と適正に評価できれば、

 

「ほかの人はできなくても仕方ない」

 

と感じることができる。

 

 

しかし

 

「私などは凡人で才能もない」

 

と感じていると

 

「私にできたのだから、あなたにもできるでしょう」

 

なんて押し付けてしまったりする。

 

 

たとえば、ぼくの文章は、非常にわかりやすい。

 

これは、ぼくに「わかりやすい文章を書く才能」があるからだ。

 

 

以前はこれを認めていなかった。

 

「誰でも書けるでしょう。これくらい」と思っていた。

 

 

だから、ブログのアドバイスをしたときに書けない人を見て、イライラしていた。

 

「なんで書けないの?!」

 

と。

 

 

それは、じぶんの才能を見くびっていたから。

 

今はじぶんの才能を認めているので、ブログをアドバイスしてクライアントさんが書けなくても、それが当たり前だと感じる。

 

 

だから、ゆっくり伝えていくしかないんだと。

 

ぜーーんぶ、そう。

 

 

ビジネスに関しても、からだの動きに関しても、じぶんの才能を見くびってた。

 

すると「やろと頑張っているのにできない」人を認められなかった。

 

 

それが、じぶんの才能を認めだすと、

 

「できなくて当たり前」

 

がよく分かるようになってくる。

 

 

だからこそ、クライアントに寄り添えるし、一緒にやっていこうとい気持ちになる。

 

そこではじめて、クライアントさんの「一生懸命」に共鳴できる。

 

 

 

ほんとうに、人は才能がないものに関しては悲しいくらいにない。

 

たとえば、ぼくは味オンチ&ビンボー舌で、レタスかキャベツか白菜か分からないことが多い。

 

それは嫁さんからすると「酷すぎる!」なんだけど、ぼくにとっては「ふつう」のことなんだ。

 

レタスかキャベツか白菜かなんて分別できなくとも、生きるのになんら困らない(笑)

 

 

 

あとは、テレビで「運動音痴の芸人」や「絵が下手くそな芸人」をイジる番組があるでしょう?

 

 

あれは「才能」と「無能」を感じるいい例だと思う。

 

運動音痴に100m走やバスケ、水泳をやらせる。

 

「あれ、本気でやってんの?」

 

とツッコミが入る。

 

 

絵が下手な人に、記憶で絵を描かせる。

 

「これ、本気で描いたの?」

 

とツッコミが入る。

 

 

で、そういう番組では「信じられないくらい酷い」ということに価値が置かれている。

 

あそこで、「ちょっとでも出来ちゃったら」ダメで、やはり「完全にダメダメ」だからこそ、価値がある(笑いになる)

 

 

とにかく僕が言いたいのは

 

「一生懸命にやっても、他人から見たら”酷すぎる”というレベルになってしまうことがある」

 

ということなんだ。

 

 

そこで、もう一度これを見てほしい。

 

誰かが作った料理。

 

センスのないプレゼント。

 

適当な仕事ぶり。

 

ダンナの態度や言動。

 

上司からの無茶ぶり。

 

店員の不愛想なふるまい。

 

デートのための彼の服装。

 

 

こういうものに不満を感じるとき、もしかしたら、あなたのレベルは高すぎやしないだろうか?

 

 

才能で、料理が上手すぎやしないか。

 

センスがありすぎやしないか。

 

仕事が早くて出来すぎるのではないか。

 

 

そう、あなたは「有能すぎた」から不満を抱えていたのだ。

 

 

そして「有能すぎる」からこそ、誰かの「一生懸命」に共鳴できなくなっていたのだ。

 

 

しかし、人には「優秀」と「劣等」、「有能」と「無能」がある。

 

 

そして、そのどちらであっても「一生懸命」にこそ、最大の美しさがあると信じてやまない。

 

 

そして「有能」があなたが「無能」なあの人の一生懸命を認めるとき、有能なあなた自身が、もっともゆるされるのだ。

 

 

そこに「役割」を自覚した、ハラ生き社会が生まれると、ぼくは考えている。