「お母さんの愛し方」 ~純粋な愛の見つけ方~
ぼくらは、愉しく、かろやかに生きていくにあたって、
「お母さんの愛し方」
を学ぶ必要がある。
「お母さんの愛し方」がわかってはじめて、ぼくらは自由になれるんだ。
生まれたばかりのとき、ぼくらはお母さんが大好きなのであります。
理由も理屈もなく、「じぶん」と同一である「お母さん」を純粋に愛している。
でも実は、お母さんに生殺与奪を奪われている、非常に「不利な状態」で生まれてくるわけですね。
(生殺与奪=生かすも殺すも、与えることも奪うことも自分の思うままになること)
けれども、はじめは、自分が「不利な立場」におかれているなんて、気が付かないわけですよ。
だからワガママ放題。
それで、だんだんと知恵がついてくるにつれ、
「あれ、あたしって、この人いないとヤバいんじゃない?」
というふうに感じてくる。
自分が「依存状態」であることに気が付いてくるのだ。
そこから、ぼくらは教育という名前で、洗脳されていく。
そして
「この人がいなくなると、自分は死んでしまう」
ということを感じはじめる。
そのときぼくらは、生まれる前から持っていた「お母さんの愛し方」を忘れてしまうのだ。
「どうしたら、お母さんに好かれるだろう」
「お母さんに嫌われないように」
「お母さんが涙しないように」
「お母さんを傷つけないように」
「お母さんを悲しませないように」
「お母さんを怒らせないように」
これらはすべて
「この人がいなくなったら、私は死んでしまう」
という「不安」から生まれてくる価値観だ。
それは「純粋な愛し方」じゃない。
でも、この価値観は間違いではなくて、たしかに子どものころは「依存状態」だから、むしろ「正しい」価値観なんだよね。
虐待されてて、
「反抗したら殺されてしまう」
というときに反抗するのは賢明じゃない。
だって、子どもじゃ勝てないもの。
だから
「お母さんを怒らせないように」
っていう価値観は、依存状態の子どもにとっては、とっても大切で、必要な行動基準だったわけです。
でもさ、その行動基準を後生大事にすることはないんだよね。
10代も半ばになれば、一人で暮らしていくことができるでしょう。
そうしたら、根本原理になっていた、
「この人がいなくては、私は死んでしまう」
という大前提が崩れるわけです。
「わたしは、自分で生きていける」
その確信が生まれたときに、すべてがひっくり返る。
それは
「お母さんに好かれなくてもいい」
「お母さんに嫌われてもいい」
「お母さんが涙してもいい」
「お母さんを悲しませてもいい」
「お母さんを怒らせてもいい」
「お母さんを傷つけてもいい」
という「許可」を自分に与えることになるのです。
そして、この許可を与えることを「親からの自立」と言います。
これは、すこしとがった表現をすれば、
「親を裏切る」ことであり
「親を捨てる」ことなのです。
そのときはじめて、「ふたつの人格」が立ち現れてきて、「お母さん」も「子ども」もラクになるのです。
そこにぼくらは、生まれたばかりのときに持っていた「純粋な愛」を見つける。
お母さんを怒らせることも、お母さんを悲しませることも、お母さんを傷つけることも、お母さんを泣かせることも、お母さんを喜ばせることも
あなたがあなたらしくいることは、すべて「純粋な愛」なんだと。
お母さんに嫌われようと、好かれようと、ぼくらの「価値」はちっとも変わらない。
お母さんの役に立ってもいい。
お母さんに迷惑かけてもいい。
そんなことで、ぼくらの「純粋な愛」はブレたりはしない。
怒りも、悲しみも、涙も傷も、愉しさも、笑いも、すべては「純粋な愛」の一部なんだ。
だから、ぼくらの行動で「お母さん」がどうなろうが、知ったこっちゃない。
ぼくらは、「他人」の感情に責任を持つことなんてできないんだ。
「純粋な愛」とは、ただただ「したいことをする」こと。
「ありたいようにある」ということ。
その根本には、
「ひとりでも生きていける」というハラからの確信であり、「お母さん以外の誰かに甘えてもいい」という安心感があるんだ。
そう、育ての親からの独立とは、世界全体に甘えるってことでもある。
さぁ、あなたには
「ひとりでも生きていける」という確信と
「みんなに甘えてもいい」という安心感はありますか?
「親から独立すれば、世界が広がる」
という側面と、
「世界を広げれば、親から独立できる」
という側面があるよ。
お母さんの愛し方。
それは「世界に甘え、親の感情を無視して、ただしたいことする」
ってことなんだ。
「お母さんを泣かせてもいい」
「お母さんを傷つけてもいい」
「お母さんを笑わせてもいい」
「お母さんを喜ばせてもいい」
はっきり言って「お母さん」は、関係ない。
そんなクールさがハラ落ちしたとき、ぼくらのなかに「純粋な愛」が立ち現れるんだ。