「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

たとえば自殺という美しさ。~否定しない世界で~

たとえば自殺というのは「いけないこと」だとされている。

 

「そういうのは理由じゃない。とにかくダメなんだ」

 

「自殺というのは、いのちを冒涜する行為」

 

「自殺した魂は、永遠に浮かばれない。苦しみ続ける」

 

 

きっと、そういう世界もあるんだろう。

 

「神様」が期限付きのいのちを渡してくれて、それを「ちゃんと使い切らないとダメ」で、罰があたるという考え方のコミュニティもあるんでしょう。

 

そういう厳しい神様が好きな人もいるんでしょう。

 

 

じぶんで「死ぬタイミング」「死に方」を決めてはいけない。

 

そういうメッセージを「高次元」のほうからもらった人もいるんでしょう。

 

 

でも、ぼくは違う。

 

  

たとえ自死を選んだ人生であっても、そこに「美しさ」があるのだと。

 

 

そう信じたい。

 

 

もしも神さまがいるのなら、きっと全部をお見通しなはずで。

 

その手のひらの上でころがされている僕らが、たとえ自死を選んだところで、神様の掌から出られるはずもなくて。

 

 

だから結局、「天寿を全う」しようが、病死しようが、横死しようが、客死しようが、事故死だろうが、自殺だろうが、

 

それらがすべて「天寿を全う」することになるんだと思う。

 

 

そう、ぼくらには「天寿を全う」する以外の道を選ぶことはできないんだ。

 

 

そもそも、この日本というのは切腹や特攻など、自死のうえに成り立っている文化だ。

 

それは「自分のいのちよりも大切なものがある」という文化だからではないかと思う。

 

 

ぼくは、そこに美しさを感じるんだ。

 

 

たしかに現代の自殺者を、そういった自死と同様に捉えるのは、すこしズレているかもしれない。

 

 

ただ、「もう死ぬしかないと覚悟した悲しみ」に美しさを感じると言ったら、それは不謹慎だろうか。

 

 

本来はね、ボディ的には「死ぬしかない」は勘違いなんです。

 

からだ的には、肺と腎臓が同時に疲労してくると「肺と腎臓が疲れた」ではなくて「死にたい」というふうに言語化されてしまうようです。

 

 

ぼくも肺と腎臓は強いほうではないので、寝不足が続くと「死にたい気分」になることがよくあります。

 

 

ただ、この「死にたい」はニセの欲求だと分かっているので、そういうときは休息すれば「死にたい」はただちになくなってしまいます。

 

 

ただ、そうとは分からない人もいる。

 

それほどまでに追い詰められている。

 

追い詰められ追い詰められ自殺を選んだ人を、ぼくらは追い打ちをかけるように「それはよくない」と責めることができるだろうか。

 

「よくここまでがんばったね。つらかったね。苦しかったろうね」

 

と共鳴してあげることは、悪なのだろうか。

 

 

ぼくはね、「自殺をしてはいけない」っていうのは分からないんです。

 

でも「親しい人が自殺をしたら悲しいから、しないでほしい」という勝手な思いはある。

 

きっと、そんな勝手な思いはみんな持っていて。

 

その「勝手な思い」を、押し付けたいがために「自殺はいけない」なんていうテーゼができたんじゃないかな。

 

 

だからさ、「自殺はいけない」って日本や社会に向けて声高に叫ぶよりも、目の前の人に

 

「あなたが死んだら悲しいよ。あなたが生きてくれてて嬉しいよ」

 

っていうことを伝えていくことが大事なんじゃないかと思う。

 

ぼくは、そういう世界が好きだ。