「ごめんね」はゆるしてもらう言葉じゃなくて、ゆるしてあげる言葉なんだよね。
「ごめんね」って、とっても大事な言葉なんだよ。
「ごめんね」があるからこそ、間違えることができるし、「ごめんね」があるからこそ愛しあえる。
「ごめんね」がなかったら、とっても息苦しい社会になってしまうと思うんだ。
でもね、「ごめんね」の使い方を間違ってしまうと、すごく苦しくなってしまうんだよね。
「ごめんね」は、諸刃の剣。
だから「ごめんね」の用法・容量をきちんと守ってお使いいただく必要があるんだ。
気持ちいいハラ的「ごめんね」っていうのは、自己肯定感があるとできるの。
心の底では、
「じぶんは間違ってもいい」
「っていうか、ミスはしたけど、存在の価値とは関係ない」
「間違えるくらいじゃ、価値は下がらない」
って感じていられる。
そういう人が「ごめんね」って謝ると調和が起こる。
つまり、じぶんをゆるしている人が使う「ごめんね」は、ハラ生き的なんだね。
それが自己肯定感の低い人の「ごめんね」は、「ゆるしてもらう」ことが目的になっているんだ。
だから、ひたすら謝ってしまう。
相手の機嫌をなだめるために謝ってしまう。
その場をしのぐために謝ってしまう。
そうしたらどうなるか?
それは調和が起こらずに、虐げられることになる。
相手は力や言葉の暴力を使って、あなたを奴隷化しようとするだろう。
あなたはその恐怖に屈して、また謝ってしまう。
それで主従関係が決まる。
ご主人様と奴隷になってしまう。
あなたは、そんな関係に陥っていないだろうか。
ここで、自己肯定感のない、後者の「ごめんね」について考えてみる。
すると、その目的は「ゆるしてもらう」ことだった。
ってことは、よく観察してみるとこれは「奪う」発想になっているの。
ゆるして「もらう」
んだからね。
もらおうとしている。
奪おうとしている。
そして、他のことも見てみると
「相手の機嫌を「怒り」から変えようとしている」
「相手の不機嫌を直そうとしている」
「相手が怒ることをゆるしていない」
んです。
そして「ごめんね」が「あなたは、私のために機嫌を直してください」という意味になっている。
だから調和が起こらないんだ。
本物の「ごめんね」とは、じぶんと相手を「ゆるしてあげる」言葉だ。
相手の機嫌を変えるためでなく、「相手が気分を害した」という事実にのみ焦点を当てて謝罪する。
そこは謝るが「わたしはこう思う」ということは変えない。
「あなたが傷ついたことは分かった。そのことについては謝る。傷ついたままでいい。あとはご自由に」
という態度。
つまり、「私はあなたがどんな状態でもゆるす。あなたは私をゆるしてもいいし、ゆるさなくてもいい」
というのが本物の「ごめんね」なんだ。
ニセモノの「ごめんね」は、「あなたは私をゆるしてください」という命令形になっている。
ハラ的には相手にゆるされようがゆるされまいが関係ない。
ただただ、「こちらが自分と相手をゆるしているかどうか」だけが問われるんだ。
ゆるさなければ、からだは固まり、ゆるせば緩む。
超シンプルな法則。
もちろん、ゆるんでいたほうが、からだ的にもこころ的にも健康で健全。
ゆるされるかゆるされないかは、こちらで決めることはできない。
だから依存的な生き方になってしまう。
しかし、「ゆるすかゆるさないか」は、こちらで決めることができる。
だから主体的な生き方ができる。
「ゆるすかゆるさないか」は自分で決められます。
ゆるしたほうが幸せになれます。
それが分かったときに、何を選択するか、って話なんだよね。
あなたの「ごめんね」は、どちらの「ごめんね」ですか?