「まなび」の世界から「あそび・よろこび」の世界へ~「上手い/下手」を超えた美しさへ~
「まなび」の世界から「あそび・よろこび」にシフトしてしまうこと。
これもハラ生き道のひとつの側面だ。
ぼくは昔から、「何かをはじめるときには学ばないと」っていう思いが強くて。
水墨画はじめるときにも10冊以上も本を買ってしまって。
「基本・基礎を知らないんだから、そこから学ばないと」
「基礎を知らないで、やっても上達しない」
「ちゃんとした基礎を修得してから、応用する」
っていう思い込みが強かった。
でもね、それは全部エゴの視点だったんだよ。
たとえばそれが「如是我聞」で、「わたしはこう聞いた」と「私」をなくして、師の教えを「そのまんま」伝えたとしても、エゴの視点からは抜け出せていないんだ。
そもそも「未だできていない」から、「何か」を修得して「完璧になろう」という発想じたいがエゴ視点なんだ。
そうすると、どうしても「学ばなければいけない」っていうふうになってしまう。
では「ハラ視点」ってのは、どういうものかというと、
「はじめっから完璧で変えるものなど何もない」
という見方。
そしたら、「欠けているものを埋める。出来ていないものを出来るようになるための学び」っていうのが不要になってしまう。
それよりも、「いま、あるものを使って最大限に遊び、よろこぶ」という考え方になっていく。
これは「子どもの絵」をどう見るかというので視点がハッキリわかる。
「子どもの絵」は、未熟な子どもが書いた未熟なものであり、これからもっと練習することで上手になる、
という考え方がエゴ視点。
ハラ視点だと
「子どもの絵」は、もうそのまんまで完璧。直すところ、変えるところなど、何一つない、
という発想になる。
これは、どちらがいいというものでもない。
ただ、どう捉えるのが心地よいのか、という話だ。
おぜっきーは、ずっと前者を採用していた。
だから、「修業・鍛錬」しなきゃいけないと思っていたし、「永遠に向上」するのが人生だと思っていた。
そして「修業しているストイックな自分」はカッコよくて、サボっている自分はダメダメなんだと思っていた。
剣道の中山博道が、睡眠時間を4時間にけずって剣術の稽古にいそしんだと聞けば、
「ああ、そこまではできない。おれはダメなやつだ」
と自分を責めていた(笑)
マス大山のように、片まゆを剃って山籠もりでもせねば…と考えていたwwww
たしかに、「まなび」の世界にも面白さはあって。
それは「だんだん上手くなる」っていう面白さなんだ。
練習すればするほど、どんどん「たくみ」になっていく。
それは嬉しいよね。
それは分かる。
ただ、それは今のおぜっきーの観点からすれば、けっきょくのところ「誰か」とか「昨日の自分」と「くらべる」発想なんだよね。
それよりも、今のおぜっきーは「つたなさ」のなかにある「美しさ」を見出したいと思ってるんだ。
というか「うまい/へた」「巧拙」を超えたところにある、元々ある「美しさ」、そこにフォーカスしたいと考えていて。
それは、「このまんまのおぜっきー」が「やろう」という作為を超えたところにあるはずなんだと確信しているんです。
そいで、「この絵を極める!」とハラをきめた。
だから、今の水墨画の師匠は、ぼくの子供たちなんです。
「うまく描く」ことを超えて、「描く」というよろこびを120%表現しきっている、この線に、ぼくは憧れている。
そして、そういうセミナーとか、そういうセッションを目指していて。
セッションなんかでは、すべての心理テクニックやコミュニケーション技術を捨てました。
言葉のかけ方、質問の仕方、そういうものも、ぜーーーーーーんぶ忘れて。
整体でも、学校でならった技術は99%使ってないですね。
ただただ「ここにある」というよろこびを体感し、表現していく。
なぜなら「変えるべきものなど、ひとつもない」から。
んで、んでね。
ここからが面白いんだけど「まなび」は「あそび」の中に含まれているの。
だから「学びたければ、学んでもいい」の。
技術やテクニックを知りたければ、それは充分に学べばいいんだよ。
なんでかって
「ひとつも変えなくていい」=「ぜんぶ変えてもいい」
だからね。
ただそれはあくまで「趣味」「あそび」であって。
そんなことよりも、「そのまんまの自分」が充分に表現されてるかってことが、大切になってくるんだよね。
つまり、じぶんのなかの「不全感」を抜いていくということ。
それがね、あまりにも「まなび」に必死になりすぎると、どれだけ学んでも「不全感」がなくならないんだよ。
その「不全感」「不足感」は、がんばって技術を修得したり上達しても「満たされない」の。
「不全感」「不足感」は、「いま、ここ」で、「ハラのよろこび」を体感することでしか満たされない。
で、「ハラのよろこび」は、感情を消化していって心身をフラットにすること感じられる。
「ハラのよろこび」は、「テンション」の下にそっと横たわる、「個性の素」のようなものだ。
そこにアクセスし、その「ハラのよろこび」(=じわじわ)を充分に表現して生きる。
それがハラ生きなのです。