「”ありがとう”は良い言葉」という考えが「悪」を生み出してるのが分からんかな。
「”ありがとう”はいい言葉」というフレーズが「悪」を生み出す。
そう、「苦しみ」というのは、「いい」と「わるい」を「仕分けるこころ」が生み出すんだ。
ぼくらがアタマを動かすとどうしても「仕分け」をしてしまう。
するとそこに「よい/わるい」が発生する。
「よい/わるい」が発生すると、ぼくらは「良いもの」を欲しがり、「悪いもの」を排除しようとする。
しかし、この世界は、そんなに頭の思い通りにはならなくて「良いもの」は手に入らないし、去っていく。
そして「悪いもの」は寄ってくるし、とどまる。
それが「苦しみ」なのです。
じゃー、その「苦しみ」をなくすためには、どうすればいいかというと、「仕分けること」をやめてしまえばいいわけです。
全部ひっくるめて、丸ごと受け入れる。
そういう発想が大事になってくる。
そういう時に
「ありがとうという言葉を使いましょう」
「わるい言霊はわるい出来事を呼ぶのでやめましょう」
という発想が、すべて「不安」から生まれたものだということに気づくだろう。
そういう考え方が良いとか悪いとかを、ぼくは言っているわけではない。
その発想法は、「仕分け」をする「アタマのあり方」から来てるよね、ということを話しています。
「いいもの」だけを抽出しようとしたら、かならず「わるいもの」が生まれてしまう。
「〇〇さんは、良い人間」
という評価をするだけで、「そうではない人間」がいることになってしまう。
だから、この世には「良い人間」がいないほうがいい。
「尊敬できる、立派な、素晴らしい人」が一人できるだけで、どこかに「尊敬できない、ロクでもない、くだらない人」が生まれてしまう。
つまり、「よい人間になろう」と「努力」し、心がけることで、ぼくらは「ほんらいの自分」を見失っていく。
「よい言葉を使おう」
「よい態度、よい表情でいよう」
「よい姿勢を保とう」
そんな意識で、「まるごとの自分」を壊していく。
たしかに「よいことをしよう」という意識によって、「表面的には」素晴らしい人格が出来上がるかもしれない。
けれどもそれは、かりそめの、うわべだけの、見せかけの人格者なのだ。
そして、いくら「見せかけの人格者」が増えたところで、世界の幸せの総量は変わらない。
それはけっきょく、「アタマの世界」の話しでしかないのだから。
ハラ生き道で推奨しているのは、「素晴らしい人」になることではない。
ハラ生き道では、
「そのまんまの自分に丸ごとオッケーを出す」
ということに主眼を置いている。
そのために自分自身に対する緊張を解いていく。
「生きる」「いま、ここにいる」ことに対する緊張を解いていく。
その方法は、
「自分のクソ部分を見つけて見つめて笑い飛ばす」
ということ。
「ズルくて弱くて、スケベなわたし」にオッケーを出していく。
そして自分のクソ部分にオッケーが出せた人から、他人のクソ部分にもオッケーが出せるようになる。
それをハラ生き道では「世界がすこしゆるむ」と表現する。
そして、世界がゆるんだぶんだけ、ぼくらは幸せに生きることができるんだ。
もちろん、ハラ生きでいう「幸せ」とは、対極に「不幸」を配置する「幸せ」ではない。
かなしみも、さみしさも、怒りも、切なさも、恥ずかしさも、すべてひっくるめたうえでの「幸せ」だ。
そういう考えと、からだを使った具体的解決法をお伝えしているのがハラ生き道なのです。