「圧倒的なパワーを持つ」ということ。~理論が正しくても負けたら負け~
この世は理論だけじゃ、なんともならない。
まず実践があって、そのあとに理論がある。
ぼくは自分がその傾向にあるんだけれども、つい理論に走りがち。
理論を「ただしく」構築したがる。
論理的矛盾がないように、間違いのないように、アタマが納得するように、きちんと作っていく。
それはそれで才能なのだけれども、モノやコトというのは「ただしく」やるとエネルギーが落ちてしまうということが起きる。
逆に「間違っている」けれども、すごい成果を生む、すごい結果を出すということもある。
それは理屈では説明がつかない。
いや、理屈を超えているからこそエネルギーが発生しているとも言える。
たしかに「再現性」のためには、ある程度の理論の構築が必要かもしれない。
「こうやったら、うまくいく」
そんな法則を、導き出したくなるかもしれない。
でも、その法則がコトバになった途端にエネルギーが激減してしまい、効果がなくなってしまうこともあるんだ。
数学の世界なら、「理論的で正しい答え」があるのかもしれない。
けれども、この世には「答え」なんてないんだ。
しいていえば、「愉しい」「心地よい」のエネルギーがすべてと言っても過言ではないかもしれない。
合気道というのは、けっこう理論の世界なんです。
敵がこうくる。それをこうかわす。そしてこう投げる。みたいな「型稽古」を練習する。
すると面白いことに、なんとなく強くなった気がしてしまう。
型稽古なのに、ヒーローや達人になった気になったりする。
でも実戦では、そうはカンタンに相手は技をかけさせてくれない。
この動画を観てほしい。
(30秒から見ればOK。すぐ終わります)
合気系の武術の「達人」が、格闘技の人に瞬殺されています。
この「達人」のおじいさん、youtuberが取材して「本物でした。」なんて動画にまとめられていたりします。
たしかに動画を観ると「ヤラセ」ではないんです。
けれどもね、それは実戦で使うのとは、また別の話なんです。
このおじいさんは、「理屈の世界」では達人だったかもしれない。
けれども、圧倒的に「パワー」、つまり「実戦の力」がなかったということです。
やはり、この世はこの世ですから。
ぼくはハラ生き道で「フォース」的なエネルギーを伝えていますが、それがすべてとは思っていません。
やはり、この世を生きるのに「パワー」は必要なんです。
たとえば世の中を変えたいのなら、なにかしらの権力は必要だし、「お金」というパワーも必要になります。
どれだけ良いことを言っても、パワーがない人、つまり「結果の出ていない人」の言うことなど誰も聞いてくれません。
これは、とても悲しいことです。
美しき理想論を語る者からしたら
「あいつ、あんなに間違ってるのに」
「あいつ、無理やりお金稼いでるだけなのに」
「あいつ、あんなに悪いやつなのに」
って思うことがあるかもしれません。
でも、現実世界では「結果を出した人」が注目されるという現実があるのです。
これを批判したり、否定しても仕方がない。
「負けは負け」なんだと受け入れるしかない。
じぶんの「正しさ」を証明したいなら、「理論は間違ってないはず!」と主張するのではなく、間違っててもいいから「圧倒的なパワー」で結果を出すしかないのです。
そのあとに「フォース」的なエネルギーにシフトしていけばいい。
「ふん、ああいうやり方すれば俺も稼げるんだけどね、それは俺の性に合わないから」とか
「ああやって勝っても美しくないから」とか
「ああいう目立ち方すれば人気も出るんだろうけど、はしたないよね」とか
言い訳するのはダサいよね。
数字の上で負けは負けなんだから。
「数字にこだわらない」って、「数字から逃げる」ことじゃないと思うんだ。
やっぱり、あまりに結果が出ないなら「あり方の修正」が必要だと思うし。
で、パワーでもなんでもいいから結果を出して、そのあとに、さらに美しくしていく。
そういう順序が大切なんじゃないかと思うのですよ。
まぁ完全に理想論に走りたがる俺への自戒ですわな。
誰かの参考になったのなら幸いです^^