「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

自分に自信がないんじゃない。「自分の生き方」に自信がないんだ。

「自信がない」というのは、どういう状態なのかと具体的に考えてみると、「自分そのもの」に自信がないのではなく、「生き方」に自信がないのだということが見えてくる。

 

 

 

生き方に正解などないのに、なぜ「自分の生き方」に自信が持てないのかというと、それは自分にウソをついているからだ。

 

 

 

ぼくらは、自分にウソをつくとき、ハラの力が抜けるように出来ている。

 

 

自分をだましたとき、ハラの力が抜け「腑抜け・腰抜け」となり、「内側のチカラ」が出なくなってしまう。

 

 

 

すると見た目の姿勢も崩れてくるし、体調も崩れてくるし、気持ちも不安定になってくる。

 

 

それが「自信がない」という状態なのだ。

 

 

 

自分の内側から動いていない人は、どこか主張が上ずっていて、フワフワしている。

 

 

内容が響いてこなくて、うさん臭さばかりが強調されている。

 

 

 

それは結局、ウソをついている後ろめたさをごまかすための主張だからだ。

 

 

「今のままで、充分に幸せなんです」

 

「こんなもんでいいです」

 

「ふつうで、平凡で、いいんです」

 

 

そんな言葉で、自分の本当の気持ちをごまかしているうちに、「ハラの底にある思い」が本当に見えなくなってしまう。

 

 

 

ぼくは思う。

 

 

「なんとなく満たされてる感」

 

 

がいちばん恐ろしいのだと。

 

 

 

 「なんとなく満たされてる」くらいなら、不安で不安でしょうがないほうがいい。

 

苦しみのどん底で絶望し、光が見えないくらいがいい。

 

 

なぜなら「なんとなく満たされてる」なんてウソっぱちだからだ。

 

 

ほんとうは、心に傷を抱えている。

 

本当は、もっとちがう希望を抱いている。

 

本当は、他に欲しいものもやりたいこともある。

 

 

それを全部おさえこんで、「これでいいんです」なんてクソすぎるでしょう?

 

 

だったら、それが手に入らない苦しみ、先の見えない恐怖、みじめさ、情けなさ、すべて感じられる状況のほうだ、まだマシなんだよ。

 

 

「なんとなく満たされてる」生き方をしていると、批判に弱い。

 

 

SNSで自分のことを批判されてなどいないのに、ドキっとしたりグサっときたり。

 

「私のことかな?」と不安になってみたり。

 

 

そういうのは、生き方に自信がないからだ。

 

つまり、自分にウソをついた生き方をしているから、いちいちグサっときてしまう

 

 

とはいえ、かくいうおぜっきーだって、なかなか「自分の本音」などは見つけられない。

 

 

そもそも「自分の本音」というのは、奥の奥にありすぎて、通常ほとんど見えないし感じられない。

 

 

それは、毎日毎日、自分を見つめながら、地道にじっくりと探していくものなんだ。

 

 

そのときにカラダの感性が必要になってくる。

 

 

なぜなら、「自分の思い・考え」というとアタマにありそうに感じるけれども、実は「本音」というのはカラダに埋め込まれているからです。

 

 

だから、何をするにも「カラダ」の反応というのを見ていく。

 

とりわけ、ハラの感覚を鍛えていく。

 

 

すると、そこには「反応する/反応しない」という分かりやすいイエス・ノーの世界がある。

 

 

もちろん、「ハラが反応しない」ことをやめて、「反応する」ことをやればいい。

 

すると、次第にハラが満たされてくる。

 

 

ただ、注意してほしいのは「反応する」には「好き」と「嫌い」があるのだが、このどちらもが大切だということだ。

 

 

 

いわゆる「引き寄せ」系では「嫌い」を排除する傾向があるように思うけれども、実は「嫌い」というのは、ものすごいポイントになる部分なのだ。

 

 

 

ハラ生きにおいて排除していいのは「興味がない」のみ。

 

 

「好き」と「嫌い」は「反応する」という同じカテゴリーになるのです。

 

 

 

「嫌い」というのは、ぼくらが「見たくない世界」です。

 

 

つまり、ぼくらのなかの「汚い部分」「影の部分」「ネガティブな部分」です。

 

 

 

 

この「観たくないから見てない世界」に光を当て認めていくこと。

 

 

それが「ハラを満たすこと」につながり、ひいては「生き方への自信」につながるのだとぼくは確信しています。