「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「苦しいな」と思うときの対処法は、苦しむことである。

「手放す」だなんだと口で言ってる人でも、なかなか手放せないものである。

 

 

「幸せ」だなんだと公言していても、そう完璧に幸せな人などいないのである。

 

 

「すべてはうまくっている」なんて指導している人でも、「運を良くしよう」とか「失敗しないように」なんて努力しているものである。

 

 

 

つまり、人はそうそう「幸せになりきる」なんてことはできない。

 

 

「何が起こっても幸せ」ってのは、ある意味、空想上の概念で、その境地にたどりついた人は数えるほどしかいないんだろう。

 

 

だから、ぼくら一般人が苦しむのは当たり前のことである。

 

 

欲しくもない「嫌な気分」に襲われるのは、ふつうのことなんだ。

 

 

 

おぜっきーも、こんな仕事をして「ハラ生き」を説きながら、いまだに罪悪感や自己否定に苦しむことがある。

 

 

いや、こんな仕事をしているのはきっと、自分のそれを何とかしたいからなんだ。

 

 

ブログを書き、セミナーやセッションで、多くの方にお伝えしているカタチのなかで、実は自分に語り掛けているんだ。

 

そう、もっとも「ハラ生き」を願ってやまないのは、おぜっきー自身なのだ。

 

けっきょく、自分自身を救いたいだけなんだ。

 

 

だから何かの拍子に、ガクっとハラの力が抜けてしまうことがある。

 

そういうときは、アタマに意識が上がってしまい、とつぜん苦しくなる。

 

 

「もっと評価されたい!」

 

「もっと役に立ちたい!」

 

「もっと褒められたい!」

 

 

自分の無価値感を逆に投影したカタチの欲望が、うずうずと出てくる。

 

 

欲望というより渇望だ。

 

「もっともっと、分かってくれ!」

 

「すごいと評価してくれ!」

 

「なんで、分かってくれないんだ!」

 

と餓鬼のごとく、心が千々に乱れる。

 

 

ただ、幸いにもこうして文字にしているとおり、「状態がおかしくなっているな」とは感じる。

 

 

だから、こうして文章にしたりしてエゴをなだめるのだが、それでもやはり渇望の炎が、じりじりと燃えていることがある。

 

 

そういうときは、もうその苦しみが止むまで、苦しみ続けるしかない。

 

 

もちろん自前の呼吸法はやる。

 

瞑想もやる。

 

体操もやる。

 

 

けれども、それでは焼石に水のときもあるのだ。

 

 

そうテクニックやメソッドが対応できるのは、「それなりのもの」だけで、本質的な苦しみは「こらえる」ことしかできないのだ。

 

 

ただ、そのさいにある程度ハラの使い方が分かると「こらえる」ことがしやすい。

 

 

外の筋肉に力を入れ眉間にシワを寄せてガマンするのではなく、ぐっとハラに力を込めて「耐えきる」のだ。

 

 

 

すると、自然と渇望の焔(ほむら)は小さくなってくる。

 

 

つまりぼくらは、苦しいときには苦しむしかない。

 

逃げ道など、どこにもない。

 

苦しみに真正面からぶち当たるしかないのだ。

 

 

けっきょく、「ハラ生き」というのは、その覚悟なんだよね。

 

 

「愉しい」っていう言い方は、あまりにも語弊があるのかもしれない。