「自己犠牲」でさえも許すことで、さらに幸せが拡がる。
ここ1、2年のなかでも、世の中の価値観が大きく転換してきているのは、多くの人が感じていることだと思う。
ことSNSのなかではその変化が早く、まるで今までの価値観が一掃されそうなほどの勢いを感じることができる。
たとえば、よく見かけるのは
「女性はわがままであれ」
というような主張。
今まで、女性は3歩下がって男性のあとをついてきたが、これからは女性の時代だ。
もっと女性が主権を握り、”姫”になり、”女王”になりなさい。
そうすることで、男性も活かされるのだ、と。
ぼくは、こういう主張はぜんぜんアリだと思う。
昭和にはなかった、非常に革新的で素晴らしい考えだと思う。
けれども、「この考え方のみが素晴らしく、時代の最先端で、みなが実践すべきもの」というような風潮には、ぼくは疑問を感じる。
ぼくは、新しい世界の価値観というのは、とにかく「多様性」という言葉に集約されると思う。
「それもアリだよね。これもありだよね。モハメド・アリだよね」
っていう調子の「認め合い」。
これが根本的には、いちばんラクなはずなんだよね。
たださ、時代を革命していくというか、世間にプロパガンダしていくときにさ、
「これまでの価値観に対するアンチテーゼ」
でやっていくと、非常にウケがいいわけですよね。
革命感がカッコイイし。
わかりやすいし。
ただそうすると、どうしても
「これまでの〇〇はもう古い!これからは××だ!」とか
「新しいあり方はコレ!」とか
「この時代に幸せになるには〇〇!」
みたいな、けっきょく「あたらしい常識」の押し付けみたいになりがちなんだよね。
もともと少数の革命派だったのが、だんだんとメジャーになってくると、けっきょく体制派になっちゃったりして。
でも、それじゃぁ革命する意味ないんだよね。
それでね、おぜっきーが、たとえば提唱したいのは、
「自己犠牲もまた、美しさの一部なんだ」
ということです。
最近は、「自分を大切に」ということが流行ってきて、いろんな人が迷走しながらも、「自分を大切にする方法」を探っています。
そして「自己犠牲はよくないんだ。もっと自分を大切にすべきなんだ」という風潮がどこかにあるように感じるのです。
けれども、この世に「自己犠牲」があるかぎり、それは神がつくりたもうたもので、「必要なこと」なんですね。
たとえば、ぼくが感じるのは
「女性は尽くすべからず。男性に尽くさせよ」
というような雰囲気。
たしかに、これは革新的な教えです。
あたらしい。
そして、悪くない。
けれども、そこには「性とはこうである」という真理を語ろうとする意図が見えるんですね。
しかし、真理というのは一人一人によって異なるものであり、けっして外から確定されるものではありません。
だから今までの「三歩さがって」のあり方がピンとこなくて、「尽くされる」あり方が、ピタッとハマる人もいるでしょう。
けれども、逆に「尽くす」ことが心から嬉しい人もいるわけです。
それは、他人から観れば「自己犠牲」かもしれない。
けれども、そこに心からの快感を感じる人もいるはずなんですね。
それで、「多様性を認める」ということは、そういうあり方さえも認めていくことだとぼくは思うんです。
つまり「昭和の女」の価値観を全部グレンとひっくり返すのではなく、「昭和の女」の価値観も残した上で、新しい価値観も導入していく。
革命は愉しいけれども、そういう冷静さも必要だと感じています。
苦しみのもとは、いつだって「ねばならない」なんです。
だから「ねばならない」から解放され「ねばならない」ってなってたら、苦しい。
「もっとラクに生きなければならない」
「女性は”姫”にならなければならない」
「心のブロックを外さなければならない」
「もっと気楽に考えねばならない」
「誰々さんみたいに、自由にならねばならない」
そんなちょっとしたズレたあり方のせいで苦しんでいる人は多い。
そんなとき、「自分を変えたい」「時代を変えたい」などの、「変えたい気持ち」は危ういものだなぁと感じるのです。
だから、おぜっきーも「ハラ生き」を提唱していくけど、「アタマ生き」がダメだと言いたいわけじゃないんです。
「アタマ生き」だと苦しいことは一生なくならないから、「ハラ生き」っていう生き方もあるよ、って軽く紹介する感じでやっていきたいんですね。
「変えてもいい。でも、今のままでも何の問題もない」
そんな思いを、いつでも胸に持っておきたいなって思っています。