「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「不幸から抜け出す」という表現の落とし穴について。

ほんとうの幸福とは「不幸など存在しない」と気づくことである。by おぜっきー

 

 

「幸せ」を「不幸」の対極に置いてしまうことから、苦しみははじまる。

 

「不幸」とは、状態ではなく、「あり方」だ。

 

それは「からだのあり方」であり「意識のあり方」であり、「ものの捉え方」でもある。

 

 

だから、たとえば「独身でずっとさみしかった人が、結婚しました」というのは、「不幸から抜け出した」ことにはならない。

 

独身を「不幸」だと思い、結婚を「幸せ」と考える。

 

その考え方のことを不幸というのです。

 

 

たとえば貧乏でお金がなかった人が、事業で成功してお金を得た。

 

それも「不幸から抜け出した」ことにはならない。

 

貧乏を不幸だと思う、その考え方が不幸なのです。

 

 

その意味で「私はかつて不幸だった」という表現には、ふたつの意味がある。

 

 

ひとつには「私はかつてお金もなくて愛されなくて不健康で不幸でした」

という意味。

 

ここに、非常な危うさがある。

 

もしその人がそう本当に感じているのなら、その人まだ「不幸」から抜け出せてないと言える。

 

 

じゃぁ、実際に「不幸から抜け出す」というのは、どういうことなのか。

 

それは

 

「私はかつて、お金もなくて愛されなくて不健康だと勘違いするくらい大バカでした」

 

という捉え方ができるようになる、ということです。

 

 

これは、とても怖いのですね。

 

そう、「幸せになる」というのは「じぶんが間違っていました」という敗北宣言をすることなのです。

 

 

「わたしは不幸!」

 

「わたしは愛されてない!」

 

「お金がない!」

 

そうやって主張したい&正しいのだと証明したい状態こそが「不幸」です。

 

 

そこがすこしゆるんで、

 

「あれ、幸せってここにあるのかも」

 

「もしかしたら愛されてるのかも」

 

「お金もあるかも…」

 

そう思えることが、まだ知らない明日へとつながっていくのです。

 

 

そして「わたしはかつて不幸でした」というのが「わたしがバカでした」という意味になったとき、「わかってほしい」がなくなります。

 

「わたしがバカだったんです。間違っていたんです!わかってください!」

 

っていう主張はないですよね(笑)

 

 

やはり「わかってほしいアピール」するときには、

 

「私は不幸だったんです!あれも辛くて、これも辛くて。でも頑張ってきたんです!」

 

っていうほうがしっくりくるでしょう?

 

 

さて、あなたの「わたしは不幸だったんです」は、どちらですか?