「愛されていることに気づくこと」を笑ってごまかしてきたあなたへ。
「愛されている」と認めるの、怖かったよね?
「愛されてきた」ことに気づくのは、「負けたこと」なのかな?
「愛されている」ことを受け入れるのは、悔しい、よね?
「こんなにも価値のない自分が…」
「いちゃいけない存在なのに…」
「私が消えたほうが、何倍も世界がよくなるのに…」
そんな悲しい思い込みにさいなまれているあなたは、愛されていることを頑なに認めようとしないかもしれない。
幼いころの”誤解”を、ずっと懐に抱えたまま…。
愛されてるのに、愛されたいと願う。
それは「愛されていない」と勘違いしているからだ。
そして、よくよく身体を観ていくと、それは「勘違い」でもなんでもない。
「愛されている」と認めたくない。
「愛されている」なんて、ゆるせない。
「愛されてきた」なんて、絶対に言いたくない。
そういう確固たる意志が、ギュッとこころの奥にわだかまっているんだ。
それは「愛され方の指定」をしているからかもしれない。
たとえば「親の愛」とはこういうもので、「家族の絆」とはこういうもので、カレシ・カノジョになったらこうやって愛する、という
その、「愛の定義」が狭ければ狭いほど、「愛された」とは認められない。
否。
「愛されていた」と認めなくて済むんだ。
「愛されていた」と認めたら、負けになってしまう。
「愛されていた」と認めたら、今までの意地っ張りがムダになってしまう
「愛されていた」と認めたら、「愛されてない!」って不幸自慢の愚痴で興味を引くことができなくなる。
「愛されていたデメリット」って、意外に大きいんだよね。
けれども、そのデメリットを受け入れた人から、「愛されている」に気が付いていく。
あなたは「愛されていないメリット」を享受するために、一生懸命に「愛されている」を見ないようにしてきたかもしれない。
「可愛いね」というセリフは、笑って流す。「誰にでも言ってるんでしょ?」
「大好きだよ」という言葉には「またまたぁ、ご冗談を」とはぐらかす。
「愛してるよ」という態度には、「どうせ、あなたもどこかへ行ってしまうんでしょ」と。
「そばにいてほしい」には「今だけでしょ」と。
また傷つくくらいなら、信じないほうがいい。
どうせ捨てられるなら、愛さないほうが得。
いつかなくなってしまうのなら、大切にしないほうがマシ。
そうやって自分のなかに潜む「怖さ」を観ないフリして、「酸いも甘いも知り尽くした風」を演じてみるのがカッコいいのかな?
信じることとは、期待しないこと。
その美しさは、スカしているうちは分からない。
あなたを愛している人は、いつでも「そば」にいる。
「ふざけるな?私を愛してくれる人なんていない?」って?
もちろん、その考え方もOK。否定はしない。
でも、ぼくも意見は変えない。
「あなたを愛している人は、”そば”にいる」と。
それは、あなたが望む「愛のカタチ」じゃないかもしれない。
あなたが指定する「愛のあり方」じゃないかもしれない。
けれども、その「じぶん」というフレームを捨てたとき、「ああ、愛されていたんだ」が見えてくるかもしれない。
「愛されている」かどうか不安なら、勇気を出して聞いてみればいい。
「ねぇねぇ、辛いんだけど話聞いてくれない?」
「ちょっとシンドイんだけど、助けてくれない?」
「苦しいよ、ちょっと相談に乗ってほしいんだ」
そうやって「お願い」をしてみる。
それが愛を確認する手立てになる。
もちろん、忙しいからと断る人もいるでしょう。
親身になって話を聞いてくれない人もいるでしょう。
けれども大切なのは「断られる」ことで、「断らない人」を見つけることなんだ。
たしかに「断られる」のは怖いでしょう。
また裏切られたと傷つくかもしれない。
けれども「断られる」のは「断らない人」を見つけるために必要なことなんだ。
ほんできっと「断らない人」は、意外なところにいるんだよね。
そう「灯台下暗し」で、あなたの「そばに」。
ぼくらの目は「透視」はできない。
いちばん近いものしか見れない。
それは「いちばん近いものをよく見ろ」ってことなんだ。
そこに何が見える?
それは「じぶん」だよ。
あなたが「愛されていない」と主張することで、何人の人を傷つけてきただろう。
あなたが「愛されている」を受け取らないことで、悲しい思いをした人が何人いただろう。
あなたの「愛されてない」アピールで、誰か得をした人がいただろうか?
さぁ、今こそハラを括って「愛されてる」に気づいてみよう。
「愛されてる」を認めてみよう。
悔しいし、負けた気がするし、ゆるせないかもしれない。
でもあえてそこを「愛されてきた」に気づいてしまう。
それは「カラダのガード膜」を解除していくことで起こる。
ハラを据えて、「愛される」に向き合う。
笑ってごまかさず、愛を全身で受け取る。
怖いよ怖いよって泣きながら、おかしいよ愛されるはずなんてないよって苦しみながら、それでもまっすぐに、逃げずに、「愛される」を体感する。
そうしたらもう「愛されてる」という事実から、逃れることはできないんだよね。
そして「愛されてないメリット」も「愛されているデメリット」も、すべて手放すしかない。
そこに真の生きる喜びがあると思うんだ