「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「ごめんなさい」と素直に言えない人ほど、心の奥に「ごめんなさい」を抱えている。

たとえば今、あなたの周りに意固地な人がいるとします。

 

その人は、いつも「じぶんが正しい」と主張して、なかなか謝らない。

 

明らかに間違えたときでも、いや、その間違いがあからさまなときほど謝らない。

 

あなたは今、そういう人に悩まされているかもしれない。

 

 

そういうときに考えたいのは、

 

「謝れない人ほど、心のなかに大量の”ごめんなさい”を抱えている」

 

ということなんだ。

 

 

「謝れない人」の心の内には、

 

「生きててごめんなさい」

 

「ここにいてごめんなさい」

 

「生まれてきてごめんなさい」

 

「存在してごめんなさい」

 

という、あまりにも多くの「ごめんなさい」が渦巻いている。

 

もはや「息をするだけだけも申し訳ない」という人さえいる。

 

 

「謝れない人」は、過去に「謝りすぎていた」時期があるはずだ。

 

何の罪もない状態で責められ、いたぶられ、さいなまれ、どうしていいか分からない。

 

 

訳も分からず、ただ攻撃をやめてほしい一心で、

 

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 

と謝ってきた。

 

 

ただ偶発的に起こった「事件」を「じぶんのせいだ」と罪をかぶった。

 

私は罪びとなんだ。ごめんなさい、ごめんなさい。

 

私さえ、あんなことを言わなければ。

 

私さえ、あんなことをしなければ。

 

私さえ、いなければ。

 

ごめんなさい、ごめんなさい……

 

 

そして、こういう「ごめんなさい」を内部に抱えた場合、こころの表層のあらわれには2パターンあります。

 

ひとつは、そのまま表出して「ごめんなさい」を連呼するケース。

 

これが「すみません」が口グセな人。

 

 

もうひとつが、今回の「謝れない人」なのです。

 

 

つまり「謝れない人」と「謝りすぎる」人は表裏一体、「抱えているもの」は同じなのです。

 

この2人がカップル・パートナーになっているケースは多いものです。

 

 

さて、どうしたらこの内部の「ごめんなさい」を終わらせることができるのか。

 

今回は「周りにそういう方がいるパタン」でお話しします。

 

 

この場合、「”謝れない人”を0.1%責めない」という対応を続けることしかない、とぼくは思っています。

 

この「0.1%も責めない」というのがポイントで、「内部にごめんなさいを抱える人」は、「責められる」ということがめっぽう苦手なのです。

 

 

それは、いつでもー極論すれば24時間ーじぶんのことを責めているからなのです。

 

だからこそ、他人からの「責め」に関しては過剰反応してしまいます。

 

かといって、それを「直せ」と迫ることは、またさらなる「責め」を重ねることになってしまいます。

 

 

では、どうすればいいのか。

 

「0.1%も責めない」とはどういうことなのか。

 

 

それは

 

「100%の責任をコチラで取る」

 

ということです。

 

「痛み分け」しない。

 

「仲直り」しない。

 

ただただ、なんの見返りもないハラからの謝罪。

 

理不尽さを乗り越え、真偽を超え、正誤をこえ、ぜんぶ丸のみして

 

「あなたは間違っていない」

 

と伝える。

 

 

「あなたは悪くない」

 

と認める。

 

そこに一切のテクニックの入る余地もない。

 

まさに魂のぶつかりあい。

 

一点の曇りのないクリアな思いを、レーザービームのように届ける。

 

その光だけが、心の奥底の「ごめんなさい」の闇に届くのです。

 

 

この対応は「面倒くさい」です。

 

心の奥底に潜む「ごめんなさい」を溶かしていくのは、容易ではありません。

 

生半可ではできない。

 

けれども、だからこそ価値のある行為だとぼくは思うのです。

 

 

 

そう「面倒くさい」に、きっちり向かい合っていくこと。

 

それこそが、じぶんのなかの「面倒くさい」を終わらせ、じぶんのなかの「罪」を終わらせ、「ここにいていいんだ」「生まれてよかった」を浮き上がらせるのです。

 

そこにハラの喜びがあると思っています。