「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

じぶんのステージに合わない言葉を採用してはいけない。~本を読みすぎて迷うあなたへ~

ぼくはね、「じぶんのステージ」とか「現在地」って大事だと思うの。

 

その「ステージ」によって必要な「言葉」も違ってくる。

 

けれども、たとえば本やブログは大多数向けに書かれているでしょう?

 

そうすると、どの言葉を採用していいか分からなくなってしまったりするんだよね。

 

この世の中に、言葉にできる「真理」なんてない。

 

すべては関係性のなかで決まると思うんです。

 

 

たとえばぼくは「腰痛」をよくするためには、「自助努力」が大切だと思っています。

 

じぶんで腰を労わる。

 

セルフケアをする。

 

痛みの出ない動きをする。

 

そういうことをしないと、根本的にはよくならない。

 

けれども、だからといってギックリ腰で歩けないような人に体操を勧めるかというと、そんなことはしない。

 

「痛かったですね、大丈夫ですよ」という言葉がけとともに、「施術」をする。

 

それで回復してきたら、途中からセルフケアに移行する。

 

そういうベタな「流れ」があるわけです。

 

 

そのときに「セルフケアのみが真理・真実である!」みたいな考え方に偏っていたら、ひどいギックリ腰の人を傷つけてしまうんですね。

 

やはり衝撃やショック、落ち込みがあまりに大きいときには、「とりあえずただ受け入れる」という段階が必要なのです。

 

そこから、だんだんと回復してきたら、徐々に自立していく。

 

それも急ではなく、「徐々に」。

 

 

それはまるで、はじめ何もできない赤ちゃんに対して「すべてをやってあげる」状態から、徐々に子離れしていくことに似ている。

 

 

だから、たとえばここに

 

「逃げるな!逃げてばかりだからうまくいかないんだ!」という言葉がある。

 

あるいは

 

「逃げてもいいんだよ。勇気ある撤退もある。まずは逃げて回復しよう」

 

という言葉がある。

 

 

これのどちらが正しいかという議論は無意味なのです。

 

いずれも正しい。

 

ただ、それぞれの言葉を必要とするステージが違うだけなのです。

 

 

だから人生の「波」において、いま底辺にいる人にとっては

 

「まずは逃げよう。逃げてもいい」

 

という言葉が真理となる。

 

 

逆に人生の「波」の頂点にいるような場合であれば、

 

「気を抜くな。逃げずにぶつかれ!」

 

という言葉が真理になるでしょう。

 

 

つまり、真理というのは、かならず言葉にならないし、言葉にした途端に「ウソ」になってしまう。

 

 

真理というのは、ぼくの言葉でいうと「元気になる」ということなのです。

 

たとえば「逃げずにぶつかれ!」という言葉で、元気がカッカと湧いてくるのであれば、「その場合において真理」なのです。

 

けれども「逃げるな!」という言葉によって「そっか、逃げるからダメなんだ…」と自分を責めて落ち込むようであれば、それは真理ではないのです。

 

 

逆に「逃げてもいいんだよ。ありのままでいいんだよ」という言葉によって救われるなら、「その場合においては」真理。

 

その言葉で覇気が萎えてしまうのなら、それは真理ではないのです。

 

 

だからぼくは「じぶんのハラが元気になる言葉」だけを採用するのがいいと思っている。

 

「じぶんのアタマが元気なる言葉」というのは、エゴが喜ぶ、ただ甘やかすだけの言葉。

 

逆に「じぶんのアタマ」は嫌がるけれども、ハラに響く言葉もある。

 

これは「良薬口に苦し」系統の言葉。これは採用する。

 

まとめると

 

ハラ喜ぶ、アタマ喜ぶ→採用

ハラ喜ぶ、アタマ嫌がる→採用

 

ハラ反応なし、アタマ喜ぶ→採用しない

ハラ反応なし、アタマ嫌がる→ゼッタイ採用しないw

 

ってな感じ。

 

それで採用しない言葉を押し付けてくる人に対して

 

「うるせぇ、黙ってろ」

 

というハラを持つこと。

 

実際に口にせずとも「黙ってろ、お前には関係ない」というハラを持つことができると、軸がブレにくくなる。

 

 

言葉は、いつでもすべて真実であり、すべてウソなんだ。

 

言葉はときにパワフルであり、ときに無力だ。

 

たかが言葉、されど言葉。

 

 

いつでもじぶんのハラが満たされる言葉だけを聴くということ。

 

それが大事なんじゃないかと思っている。