「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「生まれ」にゆるしを出すこと。それが幸福の条件だ。

生まれとはなんと不平等なものかと、つねづね思う。

 

 

ブサメンに生まれる人、イケメンに生まれる人。

 

金持ちの家に生まれる人、貧乏な家に生まれる人。

 

親から大切にされる人、粗末に扱われる人。

 

 

一体どんな違いがあると言うのだろう。

 

「(じぶんの)魂が決めてきた」

 

「引き寄せの法則」

 

「ただただ体験したかったから」

 

「前世のカルマ」

 

いろいろな「救い」のための解釈もあるでしょう。

 

けれども真実は闇の中で。

 

「なぜ、生まれたのか」なんて分かるはずもない。

 

 

で、分からないのに、「ゆるす」しかない。

 

そういう理不尽さがある。

 

「なんで私はこんな家に生まれたの」

 

「生まれたいなんて、私は望んでない!」

 

「もっと〇〇なところに生まれたかった!」

 

そんな思いも充分に分かる。

 

たとえば僕が虐待されてきたのなら、きっとそう思うだろう。

 

「納得がいかない!」と道を逸れたこともあったろう。

 

 

いったい「生まれ」はなぜ、こんなにも不公平なんだろう。

 

けれども、それは考えつくしても答えのない疑問で。

 

考えて体験して生き抜くなかで、じぶんなりの答えを掴むしかなくて。

 

 

そして「幸せだ」と感じるには、その「生まれ」にゆるしを出すしかないんだと思う。

 

「これでよかったんだ」

 

「このままの自分で行くしかない」

 

「このシンドイ家に生まれたのも、何かの縁だ」

 

「こんな身体に生まれたのも、よく分からないが意味がありそうだ」

 

と感じられたとき、なにかがはじまるんじゃないかと思う。

 

 

他人がうらやましいときもあるよね。

 

「あんなふうだったら」って「もし」の世界の空想に浸ることもある。

 

 

でも現実は違くて。

 

どれだけ嘆いても、世界は変わらなくて。

 

 

じゃぁどうするのって、「そのまんま」で前に進むしかないんだよね。

 

「分かんない。理由も意味も分かんない。けどやるしかない」

 

この意味不明で、理不尽で、不公平不平等のふざけた世界のなかで、「ちくしょう」って思いながら進むしかなくて。

 

そのなかでさ、

 

「こんな俺もいいかもな」

 

って思える瞬間が増えてきたりして。

 

 

「ふざけんじゃねぇよ」って思いながらも、やることやってさ。

 

やることやったら、目の前の人や大切な人が喜んでくれたりしてさ。

 

なんかちょっと「あれ?」ってなってさ。

 

知らぬ間に愉しくなっちゃったりしてさ。

 

「なんか分かんないけど、愉しいかも」みたいな。

 

 

そのうち「生まれた理由」なんかも気にならなくなって。

 

「そんなんどうでもいっか。愉しいし」ってなったときに

 

「愉しくないから”理由”を探してたんだ」って気づいたりして。

 

「もういいや、俺のままでいこう」って、そう思えたときにはすっげー幸福になってたりするんだよね。

 

 

そんなストーリーのなかに「ゆるし」があると思うんだよね。

 

みんながみんな、こんな道を通るとは思わないんだけど、こんな道をたどってみてもいいかもしれないなって、思うんだよね。