気持ちを分かってもらえなくて辛いあなたへ
「気持ち」さ、分かってもらいたいよね。
でもさ、分かってもらえないときってあるよね。
むしろ、分かってもらえないときのほうが多いかもしれないね。
「そういうつもりじゃないのに」
「そういうことが言いたいんじゃないのに」
「なんで分かってくれないの」
そうやって思うこと、人間ならたくさんあると思う。
誤解やミスコミュニケーションって苦しいし、できればないほうがいいよね。
でも、誤解やミスコミュニケーションが起きてしまうのが、人間なんだよね。
そんなときにね、すこしだけ心をやわらげる魔法の言葉があって。
それが
「今は分からなくとも、きっといつか伝わる」
って言葉なの。
そう、たとえ今は分からなくても、時間をかけて伝わることってあるんだよ。
相手のタイミングの問題。
相手の身心の状態の問題。
いろいろ理由はあれど、とにかくタイムロスを経て伝わる思いって、あるんだよね。
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これは俺が大学受験のときの話なんだけど。
うちの母は口うるさいことを一切言わない人で、ぼくは生まれてから一度も「勉強しなさい」ということを言われたことがない。
もちろん高校3年生になっても
「受験は大丈夫なの?」とか
「〇〇は××じゃないの?」とか
余計なことを一切言わずに、ただただ見守ってくれていた。
そんな母が、大学の2次試験の当日の朝はじめて、玄関を出ていくぼくに向かってこう言った。
「がんばってね」
と。
ぼくは、そのことをそれほど気にもかけず
「おう、いってきます!」
と威勢よく飛び出ていった。
そして、幸いにもぼくは希望の大学に合格し、入学することができた。
それから1年半くらい経ったころだったろうか。
あるとき、ふと受験の話しになり、母が言った。
「あなたの受験の前日はぜんぜん眠れなくてね」
と。
「えっ?!」とぼくは驚いた。
「心配している」とかソワソワしているとか、一切おくびにもださなかった母が、まさか一晩眠れなかったなんて、ぼくは全く知らなかった。
そこで気が付いた。
心配性の母は、ぼくに「心配している」と悟られまいと一生懸命に振る舞ってくれていたんだと。
気にしてなかったんじゃない。
いろいろ心配も不安もあったろうに、それをあえては口にせぬよう、気を遣っていたんだと。
だからこそ受験期に、ぼくに「がんばれ」とプレッシャーをかけるようなことは一言も言わなかった。
その態度こそが「あなたを信頼している」と伝える唯一の手段だと、母は思っていたのだ。
そして、その母が受験当日の朝、絞り出すように、最後の最後に
「がんばってね」
と、ぼくに伝えた。
その重みに気が付いたとき、ぼくは泣き崩れた。
泣いても泣いても涙が止まらなくて驚いた。
あの一言には、そんな重みが含まれていたなんて、と。
ぼくは自分の受験のことが精一杯で、何も見えていなかったのだ。
けれども、その思いは時を超えて、ぼくに伝わった。
そのとき、ぼくはひとつ大人になった気がした。
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きっと「思い」というのは「伝える」というより「伝わる」という性質のほうが強くて。
そこには「自然と」「適切なタイミングで」「いつしか」というニュアンスが含まれている。
気持ちを分かってもらえないのは辛い。
けれども、もしかしたら今は「伝わる」必要がないのかもしれない。
そして、いま一生懸命に伝えていることは、「適切なタイミング」で相手に伝わるんだろう。
「いま、わかってほしい」
「いま、伝えたいのに」
「いつかなんて、信じられない」
ついそう思ってしまうのも無理はない。
誰しも傷つきたくないものだ。
「傷つくくらいなら、諦めるほうがいい」
ついそうやって「伝える」ことを諦めてしまいたくなる。
だけど本当は伝えたい。
「こう思ってる」
「こうしてほしい」
その思いを諦めたら、それってすごく自分をないがしろにしてる気がする。
だからたとえ今は伝わらなくても、もしかして死ぬまで伝わらなくとも、「伝えよう」とすることに意味があるんじゃないかなと思う。
「きっといつか伝わる」
そんな言葉を胸に、なんの保証もないなかで、こらえて信じ続ける。
それがハラのはたらきだ。
「伝わらなくてもいい」
ハラのはたらきが進んで、その境地に立ったとき、きっと見える景色が変わってくるんだろう。
あきらめずに、あきらめる。
この矛盾を抱えていく覚悟。
そこに気持ちよく美しい生き方があるんだと思う。