「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

テキストもマニュアルもない世界で。~いのちの響き合い~

長女が自転車に乗れるようになった。

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なかなか時間が取れなくて、途切れ途切れの練習になってしまい、何ヶ月かかったろうか。


その分、乗れるようになった喜びはひとしお。

パパママそろって、大騒ぎだ。

 

 

手を放して、子供がフラフラしながら進んでいく。

手助けしたい、サポートしたいという思いをグッとこらえて、伴走する。

転びそうになり、「あっ」と思うけれども、じぶんの力で立て直し、また進んでいく。

 

そのうちに安定感が増してきて、こちらもドキドキしなくなる。

 

そして、気づいたら、乗れていた。

 

 


自転車に乗るのに、テキストもマニュアルもない。

 

それなのに、子供はじぶんで乗れるようになってしまった。

 

これって、よく考えたらかなりスゴイこと。


「自転車に乗ること」を、ぼくは娘に「教えた」のだろうか。

否!

何も教えてやれることなどなかった。


もちろん、言葉がけはした。


「そうそう、ペダル踏み込んで!」

「バランス取って!」

 

でも、こんな抽象的なアドバイス、6歳の娘に伝わるわけない。

「やれ」と言われてもできないことを、なんとなく口走ってしまっただけだ。

 

きっと伝わったのは

「お前ならできる!」

「いいぞ、いいぞ、その調子だ!」

「大丈夫!止まってもまた進めばいい!」

という「ニュアンス」だけだったのではないかと思う。


しかし、人間というのは、きっとその「ニュアンス」だけで
出来てしまうものなんだ。


「パパが後ろにいてくれる」

「ママも応援してくれてる」

「大丈夫、OKって言ってくれてる」

 

きっと、これだけで娘は自転車に乗れるようになったのだ。


逆に、この「応援」がなければ、なかなか自分から自転車に乗ろうとか

「乗れそう!」

と思わないような気がする。


言葉以前の、言葉の下にある、「OK!お前ならできる!」、このバイブレーションこそが「いのちの響き」なのではないかと思う。

 

そしてきっと、たとえば「整体」という世界なんかも、実はそうなのかもしれない。

背骨をどう調整するとか、筋肉をどう調整するとか、経絡だとか、まぁ色々な理論はあるでしょう。


けれども、それらは枝葉末節で。

 

その根源に通底するのは

「大丈夫だよ!」

「すごいよ!」

「OK!それでいいよ!」

という「雰囲気」なんだ。

 

そのマニュアルやテキストにならない部分。

人を励まし、応援し、存在価値を認めるということ。

 

言葉じゃない世界で、いのちといのちを響かせながら、美しさを共有する。


まだまだ全然できていないけれども、整体やセッションをする者として、そういうことを心がけたいなと思った今日でした。

 

あー、子どもから学ぶことばかりだな。