心の問題を解説することの功罪~ピエロがいなくなった理由~
心の問題ってさ、どこか解説したり理解しちゃいけない部分があって。
というか、そもそも「解説」「理解」できる類ものじゃないのに、「やれてる気になってる」のが、いちばんアブナイ部分で。
心の傷をえぐるのに最も最適なコトバは
「それって〇〇だよね」
っていう分析だと思うんだ。
まぁ、そういうことをたくさんやってきたから言えるんだけど(笑)
いちおう論理的に言ったらそうかもね、っていう理屈があるわけじゃん?
でもさ、理屈って目の前の人に当てはめたらあかんのよね。
っていうか押し付けるっていうのかな。
「それって投影だよね」みたいなね。
投影マウンティングwwwwwwww
それってさ、転んで泣いてる人に
「それって重力のせいだよね」って解説してる状態やん?
ひざから血ぃ出てるのに、
「大腰筋の働きが悪くて脚が上がってないからだね」
みたいな分析しないやん?
でも、心の問題って目に見えないから、なんだろ緊急性が分かりにくいというか、「応急処置」するまえに解説・分析・理解がはじまったりするんだよね。
で、面白いのは、悩み抱えて分析・理解・解析されたら
「ふざけんじゃねよ。そんなヘリクツ聞いてねえよ!死ね!」
って反論するところなのに、頭のいい人は
「たしかにね。そういうところあるかも。」とか
「そっか、親が問題だったんだ」
みたいな感じで説得されちゃったりするのよね。
すると、その人あ「心の問題」をアタマで理解する。
そしてさらにこじれていく。
それは感じるべき感情が感じられなくなってしまい「分析された状態」でアタマが納得してしまうからなんだ。
ほらさ、一時期「ピエロ」の人が増えてなかった?
「仲の悪い両親を和ますためにピエロの役割を演じていた」
みたいな解説を自分でしちゃう人。
でもさ、最近あんまりピエロの話を聞かなくなったよね。
それはつまりピエロだったと解釈する流行がおさまった、つまりそう解釈してもいいし、そうじゃない解釈もたくさんあるってこと。
全部ホントで、全部ウソ。
だから、あんまり解釈とか解説とか解析とかって、どうでもよくって。
そういうことをやる以上に、「いま、ここにある感情」を充分に味わうこと、体感を鋭くすること、カラダに目を向けることのが大切だと、ぼくは思うわけ。
じぶんが解説で納得した人って、だいたい次の人に押し付けるからねwww
アタマでいろいろ納得しちゃってる人は、なかなか重症ですよ。
それならいっそ心理学の理論をひとつも知らない人のほうが回復が早い。
そういうわけで心の問題を理論的に解説することには懐疑的なおぜっきーでございます。