「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

幸せになりたいなら、インスタはやめなさい。

なんとなく女性向けの自己啓発書のタイトルのみたくしてみました。

 

 

こないだクライアントさんとお話ししていましたらね、

 

「インスタの、あの異常にオシャレな世界」

 

っていうセリフを、その方がおっしゃいましてね。

 

言い得て妙!!

 

とブンブン首をタテに振ったのです。

 

 

「異常にオシャレな世界」

 

 

そうなんでございますよ。

 

オシャレっていうか、常軌を逸してオシャレ。

 

 

 

 

この違和感、なんなのかしらと思って、ちょっと考えてみたんです。

 

そしたら、インスタの喜びっていうのは、ぜんぶ「見せる喜び」、つまり「アタマの喜び」なんですね。

 

 

だから、99%エゴの世界。

 

 

それがハラで感じる違和感だったんです。

 

 

そもそも「ハラの喜び」というのは「感じる」ものです。

 

「見せる」「自慢する」という要素はありません。

 

「見せる」という要素が増えれば増えるほど、エゴの要素が多いということです。 

 

 

たとえば「連れて歩きたい自慢のカノジョ」なんてのは、アタマで付き合ってる証拠なんですね。 

 

 

いわゆる女性を「アクセサリー」として扱っているということです。 

 (それが悪いというわけじゃありません) 

 

 

それよりは「一緒にいて喜びを感じる」のがハラ的な選び方ですね。

 

 

「見せる」ことを主眼においた生活は苦しいです。

 

それは「見せられない部分」を、どんどん認められなくなるからです。

 

 

虚言癖の人は、ウソをついているうちに、どんどんウソが大きくなって、そのうち何が真実か自分でも分からなくなってくるそうですが、それと同じですね。

 

 

オシャレなパンケーキばかりアップしている人は、こっそり牛丼を食べるためになる。

 

その「こっそり」の部分が苦しいわけです。

 

 

 

かくいうワタクシも、「オシャレな生活」に憧れたことがありました。

 

 

けれど最近になって思うのは、どれだけオシャレぶっても、ぜんぜん満たされない。

 

オシャレな場所にいっても、その人がオシャレになるわけじゃない。

 

オシャレな写真をアップしても、生き方がオシャレとは限らない。

 

 

 

 

取り繕って幸せになる人などいません。

 

 

だいたい、そんな毎回オシャレなごはんだったら疲れてしまう。

 

 

だから今、じぶんの「幸せ」と思うもののなかに

 

「見せる」とか

 

「自慢する」とか

 

「よく思ってもらう」

 

という要素があるのなら、それはハラの活性化を邪魔していると思ったほうがいい。

 

 

もちろん、そういう気持ちというのはなくなるもんじゃない。

 

ぼくだって「自慢の家族」はいるし、オシャレだと思われたり、評価されたら嬉しい。

 

 

けれども、そこに「主眼をおいてしまう」とハラが抜けてしまって苦しい。

 

 

オシャレに見せかけるのは、あくまでギャグで、生活のなかでは「ハラの充実感」を感じられたら最高だと思うのです。