やってみて絶望すればするほど、じぶんの才能が見えてくる。
「中途半端な可能性」を残しておくということ。
それは絶望から逃げるということ。
しかしぼくらは、絶望から逃げたぶんだけ、どこへも進めなくなってしまう。
こないだ、楽器屋さんでドラムを触ってみたのです。
楽器は、まったくできないのですが、ドラムだけはなぜか興味があって。
この「なぜか興味がある」のって、めっちゃ大事なんですよね。
理由はない。だけどなぜか気になる。
よくわからない。なのに好きになる。
こういう感覚はハラの感覚です。
だから、大事にしたほうがいい。
ぼくはドラムに対して、その感覚があるのです。
それでやってみたら、すごく愉しい。
「うわー、やりたい!」
って感じ。
なので、今後、安いセットからはじめて、ちょっとやってみたいなと思っています。
けれどもギターというのは、ぜんぜんダメなのです。
妻がギターをやってみたいというので以前に買いまして、それをたまに触ってみるのですが、まぁものの見事に、弾けない。
ひとつのコードさえ押さえられないのです。
もうイライラしてくる。
「難しくて愉しい」
という感じがない。
これは完全に才能もないし、ハラも動いていないのです。
ピアノも同様ですね、ウチにキーボードがあるのでたまに触ってみるのですが、もうやる気がしない。
まったくカタチにならない。
そして興味も非常に低いわけです。
ただ、こういうのも「やってみないと分からない」のですね。
ギターだって見ているときは、なんかできそうな気がした。
でも触ってみたら、全然できなかった。
そこで絶望したわけです。
望みを絶たれた。
しかし、そのおかげで無駄な時間を使わなくて済んだということです。
これがギターを触ってみなかったらどうか。
「あー、いつかギターやってみたいなぁ」
「弾けたらモテるかなぁ」
「弾き語りとかもいいかも?」
なんて無駄な妄想を膨らますわけです。
でも実際やってみたらできないってことは、その妄想の時間がムダってことですね。
一日のうちの思考を、何度もムダにしているということです。
ここに
「あー、ピアノもいいかもな」
「いやいや、トランペットもカッコいいかも」
「関係ないけど、いつかサーフィンもやってみたいな」
「あー、それよか南の島に住むってどんな感じだろ?」
みたいな妄想がどんどん進んでいきます。
これって
「夢を語る」とか「いつか夢は叶う」みたいな話じゃないんですよね。
ただの無駄な時間です。
この散漫な空想が、いちばんアタマを浪費するんですよね。
けっきょく何もできないのに、
「いつか何かできる気がする」
「本気出せばいけそうな気がする」
「たくさん夢がある」
って子どもじゃないんだから。
オトナだから自分で稼げるし、それでどんどんやってみればいいわけです。
やってみて絶望する。
「絵を描いてみたいなぁ」と思ったらやってみる。
それで愉しかったり、割と才能がありそうなら続ける。
そこで
「うお!思ってたんと違う!!これは無理や!!」
と思えたら幸いです。
早く次にいけばいい。
そうやって「可能性を潰していく」んです。
ぼくの場合は「武道の達人になる」可能性を潰したら、ハラ生き道ができた。
憧れのある「格闘技での強さ」を求めていたら、ハラ生き道は完成せずに迷走したでしょうね。
「強さ」をあきらめて、「人の可能性を活かす」というところにシフトしたからこそ、いまのハラ生き道があるのです。
だからとにかく「どんどんやって」「どんどん可能性」を潰していくのです。
才能というのは掘り起こすものです。
つまり、「消去法」によって浮かび上がってくるものなのです。
「才能がない」とか「やりたいことが見つからない」と嘆く人は、どこかに可能性を残しているんですね。
「それは才能ないんだ…」
という絶望を恐れているからです。
その中途半端さによって、じぶんという金鉱に眠るダイヤモンドを見つけられない。
まだ掘り起こさぬ泥の中に「ダイヤモンドがあるかもー。ないかもー。なかったらイヤだなぁ。おれはあると思うんだけどなぁ」とウダウダしているのが悩み状態です。
だったら早く掘ってみろよ。
そうしたら、あるかないかすぐに分かるんだから。
それで、ダイヤモンドがないようなら、すぐに次の金鉱を探しにいけばいいのです。
だから絶望が大事なんです。
あれもダメ、これもダメ、それもダメ。
「えー、これしかないじゃん」
と思えるのが才能です。
それを甘んじて受け入れるとき、あなたの才能が最大限に開花してくるのです。