「変態です」なんて自虐は「傷つかないための予防線」に過ぎない。
「変態ですね」という声かけが、SNSで流行って久しい。
その意味は
「個性的でステキですね」
「ちょっと常人とは違いますね」
「さすが突き抜けてますね」
で、相手をリスペクトするときに使う。
つまり、もはや「変態」は褒め言葉になっている。
すると、面白いことに、
「変態であろう」とか「変態になろう」と考えてしまったりする。
もしくは「変態であることのアピール」「変態だぞという主張」が強くなる。
しかし、よくよく考えてみると,それはすでにハラ生きじゃなくてアタマ生きなんだ。
「変態ですね、と褒められようとする」
「変態=個性的であると見せようとする」
そうやって、「変態というお化粧」をすることで「じぶんの本質」から離れていく。
違うんだよ。
ハラ生きというのは「disられてもやる」ってことなの。
だからほんとうの意味で
「変態!」
「最低のクズですね」
という謗(そし)りを甘んじて受け、中傷、誤解をものともせず進んでいく。
それがなんだ。
ぼくはといえば「変態」と言われ喜び、自虐的に「クソ野郎」とのたまっては、他人からの本質的な批判を避けていた。
けっきょくは言葉を替えただけで、ぼくは賞賛を求めていたんだ。
だから、どこかで失敗することを怖がっている。
バカにされることを恐れている。
「あー、あんなふうになってしまって」と失望されることを恐怖している。
「さすがにあれは違うんじゃないの?}という批判におびえている。
たぶん世に流行っている
「変態」「クズ」「クソ野郎」の類は、ほとんど仲間内の「ほめ言葉」だ。
仲間内の「褒め合い」をしているうちは、ハラが動いてこない。
ただエゴが
「これでいいんだ」
と安心するだけ。
それは違う。
ハラ生きではない。
そこに気づいたからには、またやり直しだ。
「他人の目」を無視し、己のハラのあり方に従う。
「傷つかない予防線のための自虐」は、カッコわるい。