時代は自己肯定から「自己忘却」へ。~パブリックに生きる~
「じぶんのこと」を忘れちゃうこと。
これが究極の幸せなんだと気が付いた。
プライベートな幸せは、たとえ求めて手に入ったとしても、今度はそれを失う不安が出てくる。
自己肯定を求めれば、逆に自己否定を否定したくなる。
そういう無限ループから抜け出すには「じぶんを忘れる」しかないんだ。
じゃぁ、どうやって「じぶんを忘れる」のか。
「じぶんを忘れよう」
「じぶんを忘れて幸せになろう」
「じぶんを忘れれば、幸せになれるんだ!」
それは全部「じぶん中心」「じぶん勝手」な考え方。
「じぶんを忘れる」のとは正反対の考え方だ。
じゃぁ、どうすればいいのか。
それが「パブリックな夢を持つこと」だ。
パブリックな、つまり社会的で公的な夢を持つこと。
これがプライベートな、私的な苦しみを抜いてしまうイチバンの方法なんだ。
「わたし」がどんなものを食べる、「わたし」がどんな家に住む、「わたし」がどれくらいお金を稼ぐ。
そういうことはどうでもよろしい。
というか「パブリックな夢をかなえる」というゲームに参加しはじめると、自動的にそういうことには興味がなくなってしまう。
はっきり言って「わたし」の中には「優越感」か「劣等感」しかない。
だから「わたし」がいる以上は、苦しみから抜け出せないんだ。
しかし「パブリックな夢を持つ」ことによって「わたし」を忘れる、つまり「自己忘却」してしまうと、同時に苦しみもなくなる。
「自己忘却」は「自己肯定」を超えた概念だと、ぼくは考える。
しかし、「じぶんを忘れる」というと「じぶんを捨てる」「じぶんをなくす」ストイックな修行なんじゃないかと思われてしまう。
禁欲し、公のために生き、国のために生き、先憂後楽、「みんなの幸せのために・・・!」
ハラ生き道でいう「じぶんを忘れる」というのは、けっしてそういうストイックなものではない。
ハラ生き道の「じぶんを忘れる」というのは、大前提に
「すべてが趣味、すべてが遊び」
というのがある。
「なーーーんにも変えなくていい」
「そのまんまでいい」
という大前提がある。
だからパブリックな夢、使命、ミッションなどと言っても、そんなに歯を食いしばって、眉間にシワ寄せてやるもんじゃない。
あくまで趣味、あくまで遊び、あくまで暇つぶし。
ここを忘れないように、けれどもプライベートな幸せというのでは面白くないから、壮大な夢を描いてみようということなんです。
ビッグなゲームをしようと。
では、おぜっきーのパブリックな夢とは何か。
それをここに発表します。
おぜっきーのパブリックな夢。
それこそが「ハラ生き社会の到来」なのです。
それは「すべての人が才能を最大限に発揮できる社会への転換」であり、
現代の「資本(お金)至上主義」から「幸福至上主義」へのシフトであります。
具体的に数字でいうと、
「ハラ生き道に共感・共鳴してくれる人が10万人」
「ハラ生きオンライン道場の道場生が1万人」
「ハラ塾の卒業生が1000人」
「ハラ生き道インストラクターが500人」
です。
そして名古屋駅など、各地に「施設をともなった支部」を7か所以上つくる。
改訂版の「ハラ生き本」を10000冊以上、配布する。
地域や学校、企業に対してセミナー・講演を行う。
こういった活動を「ハラ生き革命」と総称する。
これがぼくのパブリックな夢です。
以前もね、似たようなことを言っていたんだけど、そのときは分かっていなかったの。
というのは、その「パブリックな夢」をかなえることで収入を増やして、プライベートな夢をかなえようと思っていたんだね。
大きな活動をすれば収入が増える。
そうしたらもっと好きなものが買えて幸せが増えるだろう、と。
ぜんぜん「ハラの活動」が分かっていなかった。
それがクリアリングを続けていくうちに、気が付いた。
「おれのハラのやりたいことはこれか!」
と。
でも同時に気が付いたのです。
「これって完全にひとりじゃ達成できない夢やんけ」
と。
だから、このブログの読者の方には、お願いしたいのです。
「もし今【やりたいこと】が見つからないのなら、この活動【ハラ生き革命】を一緒に起こしませんか?」
「ハラ生きムーブメントを、ともに創りませんか?」
と。
そして
「なかなか叶わぬ夢を見るというよろこび」
「なかなか結果につながらぬ愉しさ」
というものを、一緒に感じたいのです。
「だが、そのプロセスがいい」
と。
いま、あなたのハラは、ぼくの思いに共鳴していますか?
ハラがグングン、ドキドキ、ワクワク、ジワジワしていますか。
じっと感じてみてください。
そしてもし、あなたのハラが反応しているのなら、ぜひハラ生きの仲間になってほしい。
おぜっきーの心からのお願いです。
「ハラ生き革命」を、起こしてみませんか?