「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「有意義」という呪い。~そんなに”意味”が欲しいのか~

はっきり言ってまだぼくは「有意義」という呪縛にとらわれている。

 

なんだろう、次につながる一歩、なにかをなしたという充実感、やりとげた達成感…

 

 

ぼくは、そういう類の感情を「素晴らしいもの」だと思っていて。

 

 

ダラダラとした1日、なんだか時間を浪費したような1日、時間をうまく使えなかったような1日を「下」に見ている。

 

 

ぼくは、それを「有意義という呪縛」だと思っている。

 

 

なにか、行動に意味づけしたがるクセ。

 

何が目的がないといけないと思う思い込み。

 

目標にむかって歩きたがるクセ。

 

 

それは、「いま、ここにある」という存在の価値への冒涜でもある。

 

また事情があって休まねばならない人、動けない人をさげすむ発想なんだ。

 

 

 

そろそろ「何をするか」という価値観から、どうあるかという価値観へシフトしてもいいのではないだろうか。

 

 

「あること」の喜び。

 

 

これが分かるようで分からなかったりする。

 

 

 

「有意義」という単語は、エゴが発する言葉だ。

 

アタマの世界の言葉だ。

 

 

「ほんとうの世界」では、すべてのいのちの、すべての瞬間が有意義であり、無意味である。

 

 

有意義な日々も、怠惰な日々も、まったく同じ価値を持つ。

 

 

サボりたいときはサボればいい。

 

 

休みたいときは休めばいい。

 

 

 

それは、現代社会の価値観とは、まだ相いれないかもしれない。

 

 

けれども、そんな世界に生きてもいいと思うんだ。

 

 

 

リキんで、力技でまとまる社会じゃなくて、自然に優雅に流れる社会だったら愉しそうだと思うのは、ぼくだけだろうか。