「役に立ちたい」とかクソみたいなこと言ってないで、クソするように気持ちよく生きろ。
「役に立ちたい」という思いが出てきたら要注意だ。
「役に立ちたい」は、基本的にアタマの思考で、感情と直感を鈍らせてしまう。
否、直感が鈍っているから「役に立ちたい」なんて思ってしまうんだ。
「役に立つ」というのは、いつでも結果なのです。
ぼくらがハラの底から愉しいことをすると、結果的に「役に立つ」ようになっています。
料理をつくるのが好きな人が料理を極めるとレストランになる。
歌を歌うのが好きな人が歌を極めると歌手になる。
絵を描くのが好きな人が絵を極めると画家になる。
それが「役に立つ」ということだ。
それが「役に立とう」とか「役に立ちたい」とか余計な思考が混ざってしまうと、「いのちの純度」が下がってしまう。
結果的に、そこには「役に立たない」ものが残ってしまう。
「役に立ちたい」という思いを抱える人は、「役に立たねば」という価値観を持っている。
「役に立たないと意味がない」
「役に立たないと価値がない」
「役に立たないなら死んだほうがマシ」
そこには「役立たず」という役を認めない心のせまさがある。
そして「役に立ってないじぶん」を責めるこころがある。
それは、とても苦しいのです。
「役に立つか立たないか」などどうでもいいことなんだ。
そんなことよりも、あなたが、今ここで「いのちそのもの」を輝かせているか、ハラから喜んで表現しているか、思い切りやっているかが大切なんだ。
「我、ここにあり!」
と高らかにじぶんの「音」を鳴らすということ。
それだけに価値があると、ぼくは思う。
ぼくらが「じぶん自身」を表現するというのは、ウンコをすることと同じだとぼくは思っている。
ウンコをするとき、いちいち
「便器はどう思うだろうか?」
「汚いと思われやしないだろうか?」
「ケツを見られて恥ずかしい」
なんて考えないだろう。
ただただ、ズボンを下ろしてブリブリと気持ちよくクソをする。
便器の気持ちなどいっさい考えない。
ただ、出し切る。
そこにある喜びが、ハラの喜びだ。
それは、「思いっきり表現する」ということ。
その美しさ。
その輝きに触れたとき、ぼくらはじぶんのいのちを思い出す。
それこそが「役に立つ」ということなんだ。
表面的・社会的な「役に立つ」に、とらわれちゃ面白くない。
アタマの世界の「役に立つ」は、だいたいつまらないものばかりだ。
だから「役に立ちたい」ってのは、全部ウソだとぼくは思ってる。
それは、じぶんとの向き合い方が足りない証だ。
「役立たずな自分」にOKが出せていないだけだ。
そう、ぼくらは誰もが「役立たず」なんだ。
それでいい。
そして「役立たず」を自覚して、「役に立ちたい」という思いを放棄して、「ただ、そこにある」という状態にシフトしたとき、つい「役に立ってしまう」んだ。
そこを逆転させて考えちゃってる人は多い。
だから「役に立ちたい」なんて思いが出てきたときは、「何から逃げてるんだろうか」って自問してみるといいと思うよ。
「じぶん自身を精一杯、一生懸命だしきる」
ぜひ、そんな試みをやってみてほしいな。