「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「罪をつぐなう」とは、幸せになること。

気付いているか気づいていないかに関わらず、「罪の意識」に縛られている人は多い。

 

 

「こんなことをしてしまった」

 

「あんなことさえしなければ…」

 

「もうすこしやり方があったかもしれない…」

 

 

そういった思いは、すべて「罪の意識」だ。

 

「罪の意識」を抱えているということは、潜在的に「じぶんを責め続けている」ということなのだ。

 

 

じぶんを責めている以上は、じぶんを100%肯定なんてことはできないし、もちろん「幸せ感」も分からない。

 

 

それは、じぶんでじぶんに幸せをゆるしていないからだ。

 

 

「あんなことをしてしまった自分が幸せになってはいけない」

 

「じぶん一人で幸せになってしまったら、あの人に申し訳ない」

 

「あれさえなければ、幸せになってもいいんだけど」

 

 

 

いずれも、幸せに条件をつけてしまって苦しい。

 

 

それは「罪をつぐなわなければいけない」という意識があるからだ。

 

 

「私は悪いことをしたので、不幸でいることで罪を償います」

 

という感覚。

 

 

それを潜在的に抱えている以上は、どんなに「好条件」の生活をしようと、素敵な人に愛されようと、けっして幸福感を感じることはない。

 

 

それは「不幸でいることが償いだ」という前提があるからだ。

 

 

 

けれども、本来的に「つぐなう」というのは、「幸せになること」なんだ。

 

「幸せになる」ことが体感的に分かったとき、すべての罪は浄化される。

 

 

 

「不幸であることで、つぐなう」という考え方のとき、どこかで相手を責めていたりする。

 

 

「なんで死んでしまったの」

 

「そんなつもりで言ったんじゃないのに」

 

「わたしは悪くない」

 

 

「不幸であり続けることで、つぐなう」という考えがあるとき、こころのどこかに

 

「まだ、認めきれない」

 

という思いがある。

 

 

つまり「起こってしまった現実」をゆるせない、受け入れられないという状態になっている。

 

 

ゆるせないから、どこかに「犯人」を探している。

 

 

そこで相手を犯人にして責めてみたり、こころの奥で「わたしは悪くない!」と主張してみたり、はたまた「やはり私が悪かったのだ」と責めてみたりする。

 

 

 

それはすべて「起こってしまった現実」を受け入れられないということなんだ。

 

「なぜ?」「だれが?」という問いかけでごまかされているが、それらの疑問は、すべて「否定」の変形バージョンなのだ。

 

 

 

 

「起こってしまった現実」を受け入れるというのは、「ゆるす」ということだ。

 

 

そのときは、そのときなりに「一生懸命」だった自分をゆるす。

 

そのときは、そのときなりに「一生懸命」だった相手をゆるす。

 

 

たしかに、今思えば、それは「間違い」だったのかもしれない。

 

「間違った選択」をしてしまったのかもしれない。

 

 

けれども、それは当時にしてみれば「仕方なかった」ことなんだ。

 

当時は、その選択が最善だと思って、その道を選んだのだ。

 

 

そんなあの頃のじぶんをゆるす。

 

そんなあの事のあの人をゆるす。

 

 

みんな「一生懸命」のなかで、「仕方のないこと」が仕方なく起こったのだと、受け入れていく。

 

 

それはじぶんの「無力さ」を受け入れるということでもある。

 

 

人の生死や、運命の流れ、地球規模でのストーリー。

 

 

どう考えても、世界は「どうしようもないこと」だらけで出来ている。

 

ちょっとくらいの有能感は、大いなる自然の前には「無能」でしかない。

 

 

 

そこに気が付けば

 

「なんとかできたかもしれない」

 

というような淡い希望はなくなる。

 

 

「あそこであんな選択をしておけば」という思いが、”幻想”だということが分かる。

 

 

そう、誰がどうしたって変えられないものは変えられないのだ。

 

 

 

その「無力さ」を実感することを「謙虚」と言います。

 

 

そして、「謙虚さ」のなかには「大いなるもの」への畏怖が含まれていて、それが「ありがとう」になるのです。

 

 

つまり、

 

「あそこで、あんなことをしなければ」

 

というエセの有能感を捨てて、無力さに気づき「謙虚」と「ありがとう」を体感すること。

 

 

それが、本当の意味での「罪をつぐなう」なのです。

 

 

つまり「幸せになる」ということこそが、「罪をつぐなう」ということなのです。

 

 

「じぶんには何にもできなかった。そしてこれからも、何にもできない。でも生かされている。だからありがたい」

 

 

そんな心持ちのとき、ぼくらは目の前の「いのち」を最大限に尊重することができます。

 

 

その状態で「過ち」を振り返り、ここからの「ごめんね」が出てきたとき、

 

つまり「許されるためのごめんね」ではなく「ゆるすためのごめんね」が湧き出てきたとき、

 

すべての「罪」は幻想であったことが体感されるのです。

 

 

だからこそ「罪をつぐなうために、幸せになる」ということをお伝えしたいのです。