世界と「響き合う」ということが分からないと、やたら難しいことを勉強しはじめる件。
よく思うんですが、「難しいこと」に依存する人って、だいたい「さみしい人」なんですよね。
「さみしい人」ってのはね、他者と「共鳴」することが分からない人です。
共鳴・共感・共振とでも言いましょうか。
これは「わたし」が消えてきてゼロに近づいてくると、反応が起こってくるのですが、そういうことが全然わからないタイプの人がいるのですね。
ええ、もちろん以前のぼくのことです(笑)
ぼくは長らく、この「(からだが)響き合う」ということが分からなかったのです。
だから「言語コミュニケーション」しかできなかった。
言葉のみのコミュニケーションというのは、じぶんと他者を分かつコミュニケーションなんですね。
つまりカンタンにいうと、どちらかが勝ちになる。
「どちらが正しいのか」というコミュニケーションになってしまうのです。
それは「さみしい」のです。
ぼくらの幸福というのは「まじりあうこと」の中にしかありません。
対立は、孤立を呼びます。
だからぼくは長いこと、「孤立」のなかにいたのです。
じぶんでは「孤高」って思いたかったけど…
その分厚い壁を強制的に溶かしてくれたのが、言語コミュニケーションの苦手な妻でした。
人生、うまくできているもんですね。
紆余曲折ありましたが、徐々に「からだが響きあう」ということが分かってきました。
でね、これが分からないと、なぜかやたらと「難しいこと」を勉強したくなるのです。
それは「言葉のコミュニケーション」が基本的に「比較・対立」のコミュニケーション」だからですね。
ってことは「相手の知らないこと」「難しいこと」「わかりにくい理論」などを「知った気」になる必要が出てきます。
そうやって「優越感」を感じることでしか、じぶんを保てないのです。
ぶっちゃけ、心理学やスピリチュアルを「勉強」して、その状態に陥る人って多いんですよね。
言葉が浮ついてるからすぐ分かります。
感覚的にいうと「ウザい人」ですwwww
だいたい、人は勉強しすぎると賢くならずに、ウザくなります(笑)
そのウザさというのは「ともに響き合う」という体感が分からない感じなのです。
ぼくの言い方だと「さみしい」状態なので、「さみしい孤独な人=不幸な人」にお勉強した知識を語られると、それがウザいのです。
はっきり言って、「自信をつける」とか「肯定感を高める」とか「トラウマを癒す」のに、難しい知識など要りません。
ちゃんとポイントを押さえて、体感し実践していけば、人は変わっていけるのです。
それは個人セッションや、6か月コースの塾(ハラ塾)で実証済みです。
そうして「響き合うからだ」が養われてきたら、「ただそこにいる」だけで、目の前の人が変わっていきます。
そこに「お勉強の知識」など、ひとつもいらないのです。
生まれたばかりの赤ん坊は、教えられなくともお乳を飲みます。
そして、教えなくとも座り、立ち上がり、歩き、ことばを話します。
それは、この世界を信頼し、ゆだね、「響き合って」いるからですね。
ぼくとしても、オトナがそういう状態で生きていけるとは思っていませんでした。
けれども「からだが共鳴できる」ということは、ほんとうに幸せなものです。
それは「<わたし>が消えてなくなる怖さであり喜び」なんですね。
それこそが、ぼくらが元々もっていた「喜び」であり、無条件の幸せなのです。
ハラ生き道では、それを「クリアボディ」と呼んで、その状態を保つことを大切にしています。