セミナーやセッションで満足するやつは”バカ”。弱者の生き方をいつまで続けるの?
「じぶんを変えたい」だなんて、変える気がないのなら言わないほうがいい。
別に変わらなくたっていいんだ。
そのままで「自分らしく」いればいいじゃない。
でも変わりたいって思ったりするわけさ。
「もうこんな人生イヤだ!」とか
「自分らしさを最大限に発揮して生きたい!」とか
「後悔なく死ねるような生き方がしたい!」とかって
思うことってあると思うから。
おれの場合は25歳くらいで強烈に、そういう絶望を感じたのね。
このままじゃダメだって。
死んでも死にきれねぇって。
それでハラ決めたらすっかり人生が変わって、「それなり楽しい」人生から「クソ愉しい」人生になったわけだけど。
それってさ、学校で習ったこととか本で学んだこと、師匠や先輩に教えてもらったこと、ガムシャラに「全部やった」からなんだよね。
これはもうほんとに「実践」にまさるものは何もないんだ。
ここでハラ生き道を学びたい方にハッキリ言わせてもらうわ。
「セミナーやセッションなんかで満足・安心してるやつはバカ」
だと。
ぼくはいつでも「ハラ塾」でも塾生さんたちにも言うんだよ。
「ハラ塾という”ゆるされた場”で、心やカラダを開くことはカンタンです。
こんなハードルの低い場で満足したら、絶対に変われない。
”シャバ”で実践するのは、ここで実践する10倍は難しい」
と。
塾生さんたちは、受け入れる器も大きいし、「ともに学ぶ」という空気があるし、「否定しない」という雰囲気になっている。
でも「現実」はそんなに甘くないんだよ。
みんな、あなた対して「期待」があるの。
「こうであってほしい」って押し付けてくるの。
自分勝手な人たちが、エゴとエゴのシーソーゲームを繰り返してるの。
想像もできないくらいイヤなやつがいるんだよ。
「変わる」ってのはさ、そういう荒波を乗りこなすってことなの。
そういう強さを身につける。
スルーできる力を身につける。
ストレスを「アース」できる「からだの軸」を養うってことなの。
それが「ハラ生きにシフトする」ってこと。
それをね、セミナーとかセッションを”麻薬”として使っちゃうことがあるんだよ。
「今まで誰にも話してないこと」を話して涙してみたり、カウンセラーのほうも「わたしだけに心を開いてくれた」なんてエゴエゴしい心を刺激されてみたりして。
自己啓発セミナーで「承認」しあって、「逃げ場」になる人たちを「仲間」だと、もてはやしてみたり。
それはそれで悪いことじゃないの。塾でもそういうことやるよ。
でもね、大事なことは、そこで培ったものを「現場」で活かすこと。
「盛り上がり」で終わっちゃダメなんだ。
「逃げ場」「港」「ふるさと」があるのは、チャレンジするためでしょう?
「逃げ場」「港」「ふるさと」でヌクヌク暮らしていたって、ハラ生き的幸福、つまり「充実感」は得られないよ。
「充実感」を得るには、「わたしには”ふるさと”がある」という安心感を胸に秘めて、荒れ狂う海に航海に出ることなんだ。
それができない人は、「逃げ場」から「逃げ場」へと逃げ惑う。
「逃げ場」の”居心地”が悪くなったら、「卒業する」なんて聞こえのいい言葉を使って、また次の「逃げ場」へ。
そしてこう言うんだ。
「あの人にはがっかりした。今度の人こそ、”ホンモノ”だ」
ちげぇよ。
変わるってことは、ホンモノからもニセモノからも「エッセンス」を盗み取るってことなんだ。
「デキる人」は「詐欺師」を批判せずに、「詐欺師」のテクニックをパクる。
そして「素晴らしい商品」を売りつけるんだ。
それは世の中のためになるでしょう?
相手がホンモノだかニセモノだかは関係ない。
じぶんの生き方がしっかりしてるかどうかだ。
それをしないで、「前の人」を批判して、じぶんは変わらずに、「逃げ場」から「逃げ場」への逃走を繰り返す。
そういうのを「弱者の生き方」って言うんだよ。
弱者の生き方には魅力も美学もないよ。
おれは、そういう人と付き合う気はない。
一緒にいても面白くない。
弱者の生き方から抜け出すには、「居心地の悪さ」へと冒険するしかないの。
「からだの軸」のつくり方を学び、こころとからだを強くして、「居心地の悪さ」という新天地へ飛び出していく。
自分なりでいい。
小さな一歩でいい。
毎日毎日、「居心地の悪さ」を体験していく。
そこにしか「充実感」はない。
だから「ハラからの満たされ感」とか「生きてる感」が欲しいのなら、冒険に出ればいい。
カラダをゆるめて、大きく息をして、腕を高く上げて、胸を張って、ビビりながら、進んでいく。
それが、ハラ生きなんだ!!
さぁ、一緒に冒険にいこう。