勝ったか負けたかは関係ない。「私は逃げなかった」という経験のみが自信となる。
勝負の結果によって傷つくわけじゃない。
「全力を出し切れなかった」とき、勝負の結果にココロを揺さぶられてしまう。
自信というのは「積み重ね」なんだ。
何を積み重ねるか。
成功体験?
勝利?
うまくいくこと?
そうじゃない。
「自信をつける」とは、じぶんを全部出し切って勝負した数を積み重ねることなんだ。
「全力を出し切れなかった」という後悔が、「負けて悔しい」という心に転化してしまう。
けれども本当は「負けて悔しい」んじゃない。
「全力を出し切れなかった」じぶんに対して怒ったり悲しんだりしているんだ。
「全力を出し切る」ことができると、その後の結果がほとんど気にならなくなる。
もちろん勝てば嬉しいし、負ければ悲しい。
けれども、それ以上に「全力を出し切れた」というハラの喜びがあふれてしまう。
ぼくが高校1年の春に、はじめて好きな女の子に告白したときも、そうだった。
見事にフラれたんだけど、生まれてはじめて、好きな人に対して「好きだ」と伝えることができた感動は、今でも忘れない。
けっきょく「全力の思い」を伝えることだけがハラ的には大事で、その「反応」に対しては、ほとんど気をかけてない。
それこそがハラ生き道の「プロセス主義」と言える。
「いま、ここ」で「それ」をすることにだけ意味があり、その後の結果に拘泥しない。
だからこそ、なんでもやりたいことができる。
そう、自信とは「私は逃げなかった」という経験を積み重ねることでした培うことができない。
「負けるケンカはしない」のが鉄則だとしても、たとえ「負けることが分かっていても」、砕け散る覚悟でぶち当たらないといけないときがある。
「自信がない」というのは、そういう瞬間から「逃げてきた」結果なんだ。
そらす、いなす、ごまかす。
そういうことをしていたら、からだもこころも腐ってしまう。
腐るは「気去る」。
ハラを使わない生活をしているうちに、どんどんヘロヘロになってしまう。
だから、やるしかないんだ。
叩かれようが、壊れようが、やられようが、自らの尊厳を守るためにハラを括って戦わねばいけないときがある。
勝ったか負けたかじゃない。
逃げたか向かい合ったか、なんだ。
そして「逃げ癖」がなおって、じぶんのクソさに向き合えたとき、知らぬ間に「自信」がついてくるんだ。