「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

ブログが書けない!?~丸裸のじぶんで生きる~

最近なぜか、文章が書けないでいた。

 

ブログもメルマガもLINE@も、書けない。

 

文章が出てこない?

 

納得のいくものが書けない?

 

いや、どこか「書く」自信がないんだ。

 

なぜ書けないか。

 

「こんなことをおれが書く資格があるのか」

 

「おれが書いて誰が読むんだ」

 

「文章を書くことに意味なんかあるのか」

 

と、ずっと自分を責めていた。

 

 

そしてこの「自分責め」はエゴがやっていることも分かるし、ハラ生き道には不要な考え方だということも分かる。

 

だから、なおのこと

 

「ハラ生き道とか提唱しておいて、こんな考えに支配されちゃいかん」

 

「これでは、みなに面目が立たん」

 

「こんなおれ、なんてダサいんだ・・・」

 

とまた自分を責めてしまっていた。

 

 

昨夜から東京に来ているのだけれど、そんな状態だから妻にも送るメールもつれない。

 

当然、妻は気遣うメールを送ってくる。

 

 

またそれに苛立つ。

 

「心配、気づかいなどしてくれるな。ほっといてくれ」と。

 

 

受け取り拒否。

 

 

ボディが開いていれば、こんな受け取り拒否はしないはずなのに、閉じてしまっている俺。

 

またハラ生き道から外れていると自分を責める。

 

こんな自分であってはいけないのに、と。

 

 

苦しい、苦しい、苦しい。

 

何をしても、気が晴れない。

 

朝、外を散歩してみたり、朝ごはんを食べてみたり、瞑想や呼吸法をしてみたり…

 

子どもと電話して、ちょっと楽しい気分になったが、まだまだ重い。苦しい。

 

 

どうすればいいんだ!!

 

と苛立ち、なかば自棄になり、妻にメールで愚痴を送る。

 

 

「なんかさ、Facebookもブログもメルマガも書けないんだよ。

 

書くことないんだよ。

 

苦しいんだよ。

 

俺なんかが書いていいのかよって自信がないんだよ。

 

反応がないと虚しいんだよ。

 

そんなエゴエゴな自分になおさら腹が立つんだよ」

 

と。

 

 

ほんとうにただの愚痴だ。

 

 

けれども、不思議なことに、何かが抜けた気がした。

 

 

そして妻からも

 

「話してくれて嬉しい。すごく嬉しい。話してくれてありがとう」

 

と返事があった。

 

 

あれ、と思った。

 

人は愚痴を嫌がるものかと思っていたけれども、どうやらそうじゃない場合もあるらしい。

 

 

それに、俺が送ったメール、なんだかエネルギーがある!?

 

どういうことだ?!

 

 

そこでよく感じてみると、俺が本音を吐露したから、そこにエネルギーが宿ったんだと思った。

 

じぶんを正当化するでもない、立派なじぶんにしようとしない、情けない、カッコ悪い、ダサい、弱い、そんな「丸裸のじぶん」をさらけ出したから、文章に「ひびき」が出ていたんだ。

 

 

そこで気が付いた。

 

 

ああ、俺また「何者か」になろうとしていた。

 

ハラ生き道を提唱する者として、「こうでなければ」に縛られていた。

 

「本質につながらなきゃ。つながらなきゃ」と焦っていた。

 

 

 

でも違ったんだ。

 

そうやって、焦る、悩む、苦しむ自分さえも受け入れてOKを出していくのがハラ生き道なんだ。

 

 

そして、受け入れてOKするってのは、「そのまま感じて、そのまま表現する」ってこと。

 

 

すると、苦しみも、重さも、嘆きも、すべてが美しさに変わる。

 

美しさとは、素材がそのまんま発露するってことなんだ。

 

 

そうか、苦しいって言っていいんだ。

 

うまくいかないよって嘆いていいんだ。

 

焦ってる、頑張っちゃってる、って言っていいんだ。

 

 

そして、苦しむことも悩むことも、それに気づくためのありがたいプロセスだったんだと分かった。

 

 

くそ、すべてはハラの思い通りか。

 

 

またハラ生き道が、いちだんと深まった気がした。

 

 

ハラ生き道は、永遠に未完成です。