本当は、「ねばならない」が大切なんだ。~「でいい」をなくせば、もっと自分を好きになれる~
浅めの「悟り系」だとさ、言葉の表面ばかりを捉えて、
「”ねばならない”をやめよう」
なんて言うでしょう?
「ねば」じゃなくて「~したい」を優先すればいいんだと。
そしてもちろん、俺もこの落とし穴に陥っていたわけです。
「ねば」は良くないものなんだ、と。
でもさ、それってもうすこし奥に入っていくと違くて。
実は本質の世界ってのは
「ねばならない」
を、すっごく大切にするんだよ。
たとえば自分の仕事に関しての、こだわりね。
「おれにとっては、こうじゃなきゃダメなんだ」
という美学がある。
それは本質に出会った者にとっては、外せないものなんだよ。
そこに「~でいい」みたいな妥協はなくて。
「~じゃなきゃダメなんだ!」という強い意志。
そこから生まれてくる本質的な商品・作品・プロダクト・芸術が、人の心を打つんだ。
たとえばディズニーランドなんかも「こだわり」の塊みたいなもんでしょう。
「どうでもいいところ」に気を遣って、「どうでもいいところ」で人を愉しませて。
それをさ、ディズニーランドが「~でいい」なんて悟っちゃったら、愉しくないでしょ。
「今日は気分が乗らないんで、開園は11時からにしまーす。そういうランドが嫌な人は来なければいい」
「がんばらなくていい。パレードも疲れているときは、横で休んでいればいい」
「ありのままでいい。ミッキーの着ぐるみはもう脱いでもいい」
みたいになったら、それは愉しくないのよ。
でもさ、「表面上のうわべだけの悟り系」って、割とそんな傾向があると思うんだよ。
そして恥ずかしいことに、俺はそんな腐った悟り系にハマっていたのさ。
とりあえず
「なんでもいい」
「どうでもいい」
と、フニャフニャしておけば、それで悟れたような気がして。
でもそれに気づいたから、おれはもっともっとこだわっていこうと思うよ。
じぶんとは何者かを追及し、さらに自分らしく表現し、
「おれはこうじゃなきゃダメなんだ!」
を表現していく。
それが美学なんだよね。
で、美学の美しいところは、「人に押し付けない」ってこと。
それから、「かならず内側からあふれてきたものに従う」ってことね。
つまり「ねばらならない」がダメって言われるのは
「人に言われただけのルールを鵜呑みにして、それを自分にも他人にも押し付ける」
ってことが人間にはあるからなんだよね。
まずは、ここから脱する。
そして「どうでもいい」「どっちもでいい」を腑に落としていく。
からだで言うと、「からだがゆるむ」っていうステージだよね。
そしてそこから今度は
もう一度「こだわる」というステージに突入する。
「アンタはアンタでいい。けど、おれはこの道でいく」
っていう孤高さ。
気高さ。
それは「自由」だからこそできる「こだわり」なんだ。
で、これは「からだがゆるむ」という段階から、もうひとつ進んで
「からだがしまる」
という段階なの。
それは、妥協しないで、自分らしい「あり方」を、徹底的に追求していくっていう世界なんだ。
あなたも、そんなプロセスを一緒に体験してみないかい?