「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

愛したくて仕方ないのに、愛し方が分からないとき。

乱暴者だ。無礼者だ。冷酷な人だ。

 

そんなふうに評される人こそ、もしかしら

 

「愛したくてたまらない」

 

人なのかもしれない。

 

 

そんなふうに考えてみると、すこし世界が違って見えてくる。

 

 

ぼくなど、一見クールに見られるけれども、実はとても愛が深くて優しいのだ。

 

 

自分で言うなと笑われそうだが、これを認めるまでに、ずいぶんと時間がかかった。

 

 

それまでは

 

「どうせ愛し方なんて分からない」

 

「伝えてみても伝わらない」

 

「別に冷徹な人だと思われてもいいし、そんな愛情などない」

 

と自分のことを思っていた。

 

 

だからこそ「技術を極めて、人に勝つ」ことばかりを考えていた。

 

 

 

それが2014年の3月かな。

 

 

上野から茨城に向かう特急列車に乗っていたときのこと。

 

なんかふと

 

「おれは、優しい人です。あたたかい人です」

 

っていう言葉が降ってきたんだよね。

 

 

それで、それを反復するように

 

「おれは、優しい人です。あたたかい人です」

 

って、ごにょごにょ言ってみたんだ。

 

 

そしたら、ドッと涙が出てきてビックリした。

 

 

 

 

ずっと、「自分の優しさ」を認められずにいたんだよね。

 

「お前は冷たい奴だ」って、自分を責めてたんだよね。

 

 

でもさ、その「冷酷さに見えるやつ」は、実は「やさしさ」とか「あたたかさ」から来てたんだよ。

 

 

繊細で優しすぎて、傷ついてしまったがゆえに、「冷酷な仮面」をかぶるしかなかったんだよね。

 

 

「もう傷つきたくないよ」って、おびえていたんだよね。

 

 

そういうことで純粋な愛し方を忘れてしまって苦しんでいる人は多いんだと思う。

 

 

愛したくてたまらない。

 

愛を伝えたくて仕方ない。

 

 

けれども、それがうまく表現できない。

 

伝わらないもどかしさ。

 

焦りや苛立ち。

 

 

そのせいで周りからは

 

「困った人」「やっかいな人」なんてレッテルを貼られたりして。

 

 

 

なんで人間って、大好きで、大好きで、大好きすぎると、「大好き」がうまく言えなくなるんだろうね。

 

 

 

愛し方を忘れちゃったときってさ、「じぶんをうまく愛せてない」ときなんだよね。

 

 

だから

 

「じぶんを愛しましょう」

 

なんて言われても、なんかムカついてくるだけで。

(だいたい、そういうアドバイスするやつも分かってないけどなww)

 

 

それで

 

「どうやって愛すればいいんだよ!」

 

っていう苛立ちが募ってくる。

 

 

それを甘えて人にぶつけるうちに、また「困った人」「やっかいもん」なんて思われたりして。

 

 

「やさしい自分、あたたかい自分」から遠ざかってしまうんだよね。

 

 

 

なんかおれさ、自分がそうだったから、

 

「そういう人もいるんだよー。わかってやってくれよー」

 

って言いたい気持ちが強いんだよね。

 

 

見た目が狂暴でも、心の中では

 

「怖がらないでよ。ほんとうは愛したいんだよ」

 

って泣いてる人もたくさんいるんだよなー。

 

 

なんか、そういうところが許容される社会になったら、愉しいなーって思っているのであります。