「復讐」をやめたとき、あなたはあなたらしさを取り戻す。
気が付かないうちに、ぼくらは「復讐」に生きることがある。
それはもう少しやわらかい表現にすれば「見返す」と言うことができるだろう。
「見返してやりたい」
という動機は、ときに非常なエネルギーになる。
フラれて見返してやりたいから、ダイエットに励んで美人になる。
バカにされて悔しいから、いい大学に入って見返す。
そんな話はよく聞く。
おれは、それ自体は悪いことだとは思わない。
どんなエネルギーであろうと、エネルギーはエネルギーだ。
復讐したいエネルギーもなくヘラヘラとバカにされることを受け入れるくらいなら、「見返してやる!」と恨むくらいのほうが、おれは好きだ。
けれども。
けれどもなんですよ。
けっきょく「復讐」のパワーというのは、その「傷の深さ」のぶんしか使えないんですな。
そう「見返したい」のは「傷ついたから」なわけ。
ってなると、「復讐のエネルギー」でやっていくために、ずっと「傷」を抱えていかないといけないんだよね。
だって、「傷」が癒えてしまったら、エネルギーがなくなっちゃうんだからさ。
ってことは、ずっと「傷つけられた被害者」のままってことでしょ?
それって、ちょっとイヤじゃない?
「傷」をいちばん早く治す方法って知ってる?
それは「ほっとく」ことなんだよ。
「傷」は、触らないでそっとしておけば、勝手に癒えるの。
それをさ、ずっとグチュグチュ触ってたら、治る傷も治らないでしょ。
おれさ、
「からだの傷は治るけど、こころの傷は治らない」
みたいなの信じてないよ。
厳しい言い方に聞こえるだろうけど、そうやって言ったほうが得だから、治らないようにしてるんだと思うよ。
つまり「こころの傷」が治っちゃったら、「ゆるさないといけない」じゃん。
それが「ゆるせない」んだよ。
だから「こころの傷はカンタンには癒えない」ってことにしておかないと困るんだよね。
で、そうやって「こころの傷」を後生大事にしていくのが「復讐していく生き方」なんだよね。
「あなたのせいでこうなった。ゆるせない」
「あのときの、あの一言がゆるせない。ゼッタイ見返してやる」
「あの人を苦しめるために、〇〇をしてやる!」
それはそれでいいんだけどさ、そうやって「傷」にとらわれることで、「じぶんの無限の創造性」を制限しちゃうのがもったいないんだよね。
なんていうのかな、何をしても「傷ありき」の表現になってしまう。
たしかに「復讐」の気持ちが成果を上げることもあるよ。
おれも、独立したとき、その気持ちあったもん。
「ゼッタイ月収100万を達成して、スゴイと思わせてやる!」
みたいなさ。
でもさ、そんな気持ちで目標を達成しても、残るのは虚しさだけなんだよ。
だって、それは「傷ありき」の行動なんだからね。
「ほんとうの自分」が求めてる行動をしてるわけじゃないから、ハラが動かないんだよ。
「ほんとうの自分」は、「過去の傷」なんかにとらわれない、もっと豊かな可能性を持った存在なんだ。
だから
「見返す」
「復讐」
をやめるってのは、「ほんらいの大きな自分」に還ることになるんだ。
からだとこころの関係でいうと、「ゆるす」ことによって「ゆるみ」がはじまる。
そうして、「内側のほんとうの自分」が見えてくるってことになるかな。
さて、あなたの今の行動の動機はなんだろうか?
愛?
不安?
それとも、復讐?
どれだいいとか悪いとかじゃないんだけど、もし「復讐」の動機でやってるんだったら、今年はそれを手放してみてもいいんじゃないかと思うよ。
なんでって、もっとあなたはスゴイから。
「復讐」にとらわれなくなったとき、あなたは完全にユニークな存在になる。
そのユニークさを、もっともっと表現していくと、さらに生きるのが気持ちよくなるんじゃないかな。
おれは、そんなふうに考えているよ。