「かなしみ」を許可すると、世界が愉しくなる。
「かなしみ」
この感情が何なのかって考えていくと、究極的には「思い通りにならない」という気持ちなんだということが分かる。
たとえば
フラれてしまった。
親しい人が亡くなってしまった。
何かをなくしてしまった。
ヒドいことを言われた。
そんな「思い通りにならない」とき、ぼくらは「かなしみ」を感じる。
そしてアタマは、それを「悪いこと」だと思っている。
けれども、面白いことに、この世界の「美しい」とされているものは、ほとんどが「かなしみ」を表現しているのだ。
美しい歌や絵画を、よく観て、よく聞いて、よく感じてみてほしい。
そこには、どこかに「かなしみ」の痕跡がある。
そして、その「かなしみ」が深ければ深いほど、人の心を打つんだ。
たとえば、底抜けの明るさを持つ「明石家さんま」も、幼少期から若いころは、非常に「かなしい」経験をしている。
その体験が、あの底抜けの明るさを生み出しているとしか思えない。
だから逆に、あの明るさを見ていると、ぼくは逆に底流にある「かなしみ」を見てしまうのだ。
たとえば宇多田ヒカルの歌を聴く。Mr.Childrenの歌を聴く。
すると、素晴らしいと思う。
しかし、そこにはやはり「かなしみ」があって、それがぼくらの持つ「かなしみ」に共鳴しているんだと感じる。
ぼくらが体験した「かなしみ」は、一体いつ癒されるのだろうか。
それは「かなしみ」が「叫び」に変わった瞬間だと思う。
押さえ込まれ、ないことにされ、封じ込まれた「かなしみ」が
「かなしいよーーーーー!!!!」
という「叫び」に昇華したとき、ぼくらは「明るさ」を取り戻すのだ。
「かなしい」ことを
「かなしいよーーーーー!!!!!」
と叫ぶことを「すなお」と言う。
そして、ぼくらは「すなお」な人が好きで、「すなお」な作品や芸術を「美しい」と感じるようにできているのだ。
あなたの好きな人は「すなお」な人じゃないだろうか。
あなたの好きなアートは、「すなお」に「かなしみ」を表現していないだろうか。
魅力的なあの人を、よく感じてみてほしい。
きっと、その根底には「かなしみ」が流れているんだ。
ぼくらは、生きていくうえで、かならず「かなしみ」を抱えていく。
なぜなら、生きるということは「うまくいかない」ことだらけだからだ。
願ってもないことが起き、思いもしないことになり、想定外の事態になる。
愛されたかなったのに、愛されなかった。
守られたかったのに、守ってもらえなかった。
大切に扱ってほしかったのに、大切に扱ってもらえなかった。
ぼくらは誰しも、そんな「かなしみ」を抱えている。
たぶん、ぼくらは、その根底の「かなしみ」でしか分かり合えない。
表面的な「思い」や「気持ち」では、人間は絶対的に分かり合えないんだ。
けれども、根っこに持っている「かなしみ」にリンクできれば、そこで少しは分かり合えると思うんだ。
生きることは、かなしい。
なぜなら、うまくいかず、思い通りにならないことだらけだからだ。
愛することは、かなしい。
愛しても愛しても伝わらない。そして、どれだけそばにいても、「同じ場所」は共有できない。
食べることは、かなしい。
それは、だれかの「いのち」を奪うことだからだ。
けれども、いちばんかなしいのは「かなしみ」が「かなしみ」に成りきれないときなんだ。
つまり
「かなしいよーーーーー!!!」
と表現されていないとき。
そう、生きることも、愛することも、食することも、かなしい。
けれど、「かなしみ」が「かなしみ」として表現されれば、それは美しい。
ただ、「かなしみ」が「なかったこと」になってしまうのは、いちばん「かなしい」ことなんだ。
かなしみは、素晴らしい。
かなしみは、美しい。
かなしみこそが、生きる意味だ。
ぼくらは、「かなしみ」を体験しにきたんだ。
だから、「かなしみ」は十分に感じていい。
そして
「かなしいよーーーーー!!!」
とありったけの声で叫んでいい。
そして、それを音に乗せて、言葉にのせて、詩歌に乗せて、たっぷりと表現していい。
そこに、ぼくらの最高の喜びがある。
生きるってことは、かなしいこと。
それが腑に落ちれば、不満が減って愉しいことが増えると思うな。