ハートを開くには「さみしさ」を受け入れればいい。
ハート言えば愛。
愛と言えばハート。
ハートは愛の代名詞のようになっていたりする。
けれども、ぼくの中では、ハートには「さみしさ」が詰まっていると思うんだ。
こういうのは机上の空論で話をしても仕方がないので、実際の体感で話したいと思う。
まずは、瞑想でも呼吸法なんでもいいので、こころとからだを落ち着かせる。
波立ちを鎮めて、こころとからだの水面をおだやかにする。
やり方一つも知らない人は、これを読んでみるといいかもしれない。
こころとからだが鎮まったところで、自分の「ハラ」に意識を向けていく。
ハラの中心に意識を合わせる。
そうすると、なにか「ワクワク」としたものが湧き上がってくるのを感じるかもしれない。
これは、ぼくの思う根源的なエネルギーだ。
次に、意識をハートの中心に合わせてみてほしい。
するとどうだろう。
「ワクワク」というよりは、「せつない」「かなしい」「さみしい」ような感じがしないだろうか。
もちろん人によっては、その感覚を「愛おしい」と表現する人もいるかもしれない。
この感覚をことばにするのは、人によって差があるのが当然だ。
けれども、ここで大事なことは「愛しさ」と「切なさ」と「さみしさ」は似ているということ。
いや、ことばは違っても、同じ感覚なんだよね。
ではなぜ、同じ感覚なのにことばが違うかというと、それは「対象」が違うんだ。
「愛しさ」は、目の前に対象があるとき。
「さみしさ」は、その対象が目の前にいないとき。
そして「切なさ」は、その対象と重なり合いたいのに重なり切れない、そのもどかしさを表すのに適している。
ただ、いずれの表現であれ、おおもとに、なにか「ネガティブなもの」をぼくらはハートに抱えているようだ。
それは写真の「ネガ」のごとく、「穴」であったり「谷」であったり、「おまんまん」であったり、とにかく「凹んでいる」部分なのである。
そこに「つながりたい」という欲求が生まれる。
もちろん「欲」も「谷」と「欠」で、「マイナス」があるからこそ、行動を起こそうという気になるということを示唆している。
何が言いたいかって、ぼくらはからだの中に、もともと「ネガティブ」を持っているということなんだ。
で、それを認めきることによって、そこに「さみしさ」があって「切なさ」があって、だからこそ「愛おしさ」があることを知る。
そう考えていくと、古語で「愛」を「かなし」と読むのもうなづけてくる。
だから、ハートを開いてラクになっていくには、自分の中の、けして消えることのない「さみしさ」をゆるしていくことなんだ。
これは、トラウマやこころの傷は関係ない。
ぼくらが生まれながらにして持っている、先天的な「さみしさ」なんだ。
それを受け入れていく。
その行為はつまり、目の前の人の根源的な「さみしさ」さえも許容していくことなんだ。
「さみしかったね。おかえり」
そのこころで受け入れられたとき、ぼくらは全体まるごとをゆるされたと感じる。
ぼくの知っている人で数人、こういう人がいる。
こういう受容のあり方を知っている人を前にすると、不思議と目頭が熱くなる。
涙まで流れなくとも、からだがゆるみ、目に涙がたまる感じになるのだ。
これはことばのコミュニケーションだけではなしえない、「からだの、ハラのコミュニケーション」なのだ。
「え、ハートを開いたコミュニケーションだから、ハートのコミュニケーションじゃないの?」
と思われるかもしれない。
けれども、ハートというのはハラを開いてから開かないと、すぐに疲れてしまう。
カンタンに言うと、「優しすぎる人」になってしまい、エネルギーを奪われ疲れてしまうのだ。(憑かれてしまう、とも言う)
とはいえ、ハラさえ開けばハートが開くというわけでもなく、そこはまた別問題になる。
ちょっと話が込み入っちゃうので、また別の機会に書こうと思う。
いずれにせよ、ぼくが言いたいのは
「ハートには、根源的な”なくならない”さみしさが詰まっている」ということと、
「その”さみしさ”を認めきることで、他人の”さみしさ”に共鳴できるようになる」ってこと。
そして「なくならないネガティブ」をゆるすことで「なくならないポジティブ」を受け取ることになり、ひいては「なくならない幸せ」につながっていくってことなんだ。
「根源的なさみしさ」にアクセスできない人は、このメソッド試してみてね。