けっきょく、ぜんぶ「大好き」から始まってるんじゃないかなぁ。
きっと、恨みもかなしみも憎しみも、ぜんぶ「大好き」からはじまってるんだ。
たとえばあなたに向けられる怒りやかなしみや羨望もすべて「大好き」だとしたら・・・。
「憎しみ」や「怒り」に見える感情を、「大好き」に翻訳するために必要なのは、
「不器用」
ってことばだと思う。
ぼくは思う。
世界中で「完璧な愛し方を知っている人」なんていないんだと。
ましてや「完璧に誰かを愛してる」なんて人はいないんだ。
誰しも、少なからず「愛し方」に迷っている。
誰もが「うつくしい愛し方」をさがしている。
自分を愛したい。
でも愛し方がわからない。
だから、他人を慈しむ方法がわからない。
とくに、幼い頃に「不器用な愛情」しか受けていない人は、なおさら「愛し方」が分からないはずだ。
「大切にするってなんだ?」
「相手を喜ばすってどうやるんだ?」
「どうやって大好きだって伝えればいい?」
そんな迷いの中で、不器用なその人は、答えの見つからない苛立ちを、つい大好きで大切な人にぶつけてしまう。
そして返ってくる反応に、また苦しむ。
「そんなつもりじゃ、なかったのに」と。
誤解、誤解、誤解・・・。
苦しみは深まっていく。
その人は、あなたかもしれない。
もしくは、あなたの母や父かもしれない。
あなたの祖父や祖母、あるいは親戚のおじさんかもしれない。
いずれにせよ、不器用な人はどこまでも不器用だ。
ぼくらはつい表面的な意識で、そんな不器用さを否定してしまう。
「愛情がない」
「冷たい」
「感情的で子供みたいなやつ」
と。
しかし今、そんな評価を「不器用」というくくりで、とらえなおしてみたい。
自分に対しても、他人に対しても。
するとそこに、「大好き」というキーワードが浮き上がってくる。
「大好き」だから、さみしかった。
「大好き」だから、かなしみが大きかった。
「大好き」だからこそ、うまく言えなかった。
今こそ、そんな不器用さをゆるしていく。
すると、そんな不器用で不格好なさまが、どこか愛おしく思えてくる。
「そうか、それでも一生懸命だったんだ」と。
そのときぼくらは、「あの人」に対しても「じぶん」に対しても、大きな大きな「ゆるし」を見つけているのだ。
「そっか、大好きだったんだな」
その気づきが胸のなかに響くとき、切なさにも似たあたたかさが、ぼくらのなかを通り抜けていく。
そのとき、またひとつ世界がゆるんでいくんだ。
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