「娯楽」に費やす時間を減らしていくと、幸せな時間が増えていく。
これは、おぜっきー独自の考え方かもしれないけれど、「娯楽」というのが、人生をつまらなくしているという側面があると思う。
昨日、名古屋にある日帰り温泉施設に家族で行ってみたんだけど、とにかくぼくは、温泉というものでは、身心ともにゆるまないんだよね。
温泉に入って「あ”~」って声も出ないし、「たまにはリラックスして、日ごろの疲れをホニャホニャ」という感じもない。
それは、ふだんから筋肉をゆるめること心がけてるからなんです。
じゃー、温泉で「疲れを癒す」人ってどんな人かっていうと、ふだん頑張ってる人なんだよね。
そして、ふだん頑張ってる人のサイクルはこう。
がんばる→つかれる→いやす→がんばる→つかれる→いやす→がんばる…
この無限ループにハマっているわけです。
このサイクルが当たり前すぎる人にとっては、それがシンドイものだとも気づいていないかもしれない。
けれども、このサイクルというのは身心ともに疲れていくのです。
なぜなら、このサイクルには「自分を見つめる」というステージがないから。
「なぜ、自分はがんばっているのか」
「ほんとうに頑張らないといけないのか?」
「なぜ、疲れて身心ともにガチガチになってしまうのか?」
そんなことを考えようともしない。
ましてや、その「がんばり」が恐怖や不安から来ているものとは、つゆも思わないだろう。
で、もちろん「娯楽」というのは、さっきのサイクルでいうと「いやす」に入るわけだね。
そしてぼくはこの「娯楽」というやつを否定しているというわけです。
なぜなら、「娯楽」には「いやす」という目的があるからです。
ってことは、「娯楽」というのは、その人の「本当にしたいこと」じゃないわけです。
つまり「娯楽」に興じる時間が長い人は、自分の疲れを取ることにだけ意識が向いてしまって、「本当にやりたいこと」をする時間がなくなっているということなんです。
それは「やりたいこと」を仕事にできていないということでもあります。
それは「やりたいこと」を仕事にする勇気がないということにもなります。
だから今回は温泉を引き合いに出しましたが、温泉そのものは悪くないんです。
たとえばウチの長女は温泉が好きですが、それは「いやす」ためにいってるわけではない。
ぼくは一緒に入らないので知りませんが、妻の話によると「おおきなおふろ」に入ると、いつもはしゃいで、なんチャラ風呂とかをめまぐるしく入るようです。
つまり「温泉に入ることが愉しい」という状態。
これはハラ生きにあたります。さすが子ども。
けれども「疲れたオトナ」は、「疲れをいやすために温泉に入る」。
これは温泉が好きなようでいて、温泉が好きなわけではないのです。
ハラ生きでいう、「温泉が好き」というのは、疲れていなくても「温泉に入りたい」という場合なのです。
だからマンガでもテレビでもゲームでも、どんな娯楽でもいいんですが、「それが目的になっているかどうか」が大切なんですね。
ぼくがいちばんもったいないと思うのは「暇つぶし」でやる娯楽。
好きでもないけど、別にやりたいわけじゃないけど、時間をつぶすためにやること。
時間=人生ですから、「ヒマつぶし」でやることが増えれば増えるほど、人生を潰していくことになるのです。
それは、心の奥から本当にやりたいことを追求する勇気がないということの代償でもあるのです。
だからもし今、「人生が愉しくない」という人がいるとすれば、それは「娯楽」というものに時間を奪われているからかもしれない。
ちなみに、「娯楽」の反対語は「道(どう)」です。
「道」は、生涯学習であり果てしない夢であり、達成できない願望であります。
「ヒマつぶし」の人は人生がダラダラと長く感じると思いますが、「道」を歩きはじめると人生が充実して短く感じます。
なので、毎日が時間つぶしになっていてツマラナイ人は、娯楽ではなく「道」を見つけるといいと思いますね。
「道」を見つけ、淡々と続けてみること。
そこに、娯楽にはない充実感や、満足感があると思います。
ハラ生き「道」も、オススメです(笑)