がんばる人は、かならず洗脳されている件~そのやる気、”ニセモノ”じゃない?~
以前にこんな記事を書いたのさ。
最近のおぜっきーは「やる気」というものに対して、非常に懐疑的になっている。
そもそも、ぼくらが生きるのに「やる気」なんて要らないんだよね。
ネコも花も赤ちゃんも、やる気なんてない。
ただただ、生きている。
「やる気」の「や」の字もない。
なぜ、ぼくらが生きるのに「やる気」が要らないのか。
それは「生かされている」から。
そもそも、自分(=エゴ)の力で生まれてきたわけじゃない。
たしかに「たましい」的な視点で考えれば、自分で選んだのかもしれない。
けれども、エゴの視点から観れば「生まれさせられ」ている。
そして今も、「生かされて」いる。
その営みのなかに「やる気」が入り込むスキ間なんてないんだよね。
エゴが「やる気」になったところで、どうなるわけでもない。
エゴの「やる気」にハラは応えないんだ。
それで最近、気が付いたのは
「がんばる人は、もれなく洗脳されている」
ってこと。
そう、人が「やる気」になるときって洗脳されているときなんだよ。
本当は「やりたくない仕事」でも、なにかしら意味づけされて洗脳される。
「この仕事をすることで、お客さんの幸せにつながる!」とか。
「社運をかけた一大プロジェクトだ!」とか
「ここでみんなで気合をいれて、さらに売り上げアップだ」とか。
そういう仕組みに、素直な人ほどポコっとハマる。
リーダーっていうか、支配者っていうか、為政者っていうか、まぁそういう人たちの思惑どおりの人になっていく。
そして、「やる気」を出して、寝る間も惜しんで働いてカラダを壊したり…
手に入れたのは地位と名誉とお金と、そして「優秀な人」というレッテルだけ。
けれども、どこかに虚しさが残る。
それは当然で、「やる気」のほとんどは洗脳だからだ。
まずは「お金は多く稼ぐほうが価値がある」という洗脳。
「出世するやつは優秀」という洗脳。
「みんなでやろう!」という洗脳。
そういう洗脳を、ひとつひとつ解いていくと、「内発的なやる気」っていうのは、かなり少ないんだよね。
ほとんどは、誰かの価値観に洗脳された「やる気」になっている。
だから、今やる気がある人もない人も、いちど自分の「やる気」を見直してみたほうがいいかもしれない。
あなたが「やる気」になって、得をするのは誰?
奮闘しているつもりが、見事に「上」にコントロールされているかもしれないよ。
たしかに「達成感」もキモチイイかもしれないけれど、それは「気持ちよさ」の一部でしかない。
本質的な喜びは、「いま、ここ」にしかないわけです。
つまり、プロセスに対する喜び。
やる気を出してイヤなことを頑張るってのも、たしかにアリかもしれない。
でもそれは「あるべき姿」とか「ただしいあり方」ではないんだ。
「成し遂げる喜び」よりも、もっともっと、味わい深い「生きるという喜び」がここにある。
そう、ぼくらが今、ここで呼吸すること。
それ以外は、はっきり言って余興にすぎない。
それほど、「いま、ここにある喜び」というのは絶大なものなんだ。
ハラ生きとは、そういう喜びを体感していく生き方です。
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