それは単なる「ストレス解消」で「やりたいこと」じゃないと思うよ?
「やりたいこと」
とにかく、この6文字は深い。
だから、すぐに理解できなくていいし、理解したと思っても、気づけば気づくほど深みのあるテーマなのだ。
「やりたいこと」のなかで、わりと勘違いされやすいのは、
「ストレス解消」
なんだよね。
これはさ、「やりたいこと」とは全然ちがうわけ。
そもそも「ストレス」という概念じたいが、アタマの世界のお話なんだよね。
「ストレス」というのは、ある対象を否定するときに生まれる。
たとえば「バカ」と言われるということ。
その出来事を否定さえしなければ、そこにストレスはない。
「ああ、そう思ったんだね」
で終わり。
けれども、
「なんだと、失礼な!」とか
「俺はバカじゃない」とか
「お前こそバカだ」
とかなんとか言って、否定することで、その出来事が「ストレス」となる。
そこには、
「バカはダメなこと」 とか
「自分はバカであってはいけない」とか
「バカと思われたくない」とか
余計な価値観が、かならず挟まれている。
そして、その余計な価値観が、「ストレス」を生み出しているんだね。
けれど逆に言えば、「ストレス」というのは、自分の中の、「不要になった価値観」を洗い出してくれる貴重なチャンスなのだ。
だから、「ストレス解消」なんかしてちゃ、もったいないんだよね。
ストレスフルなときほど、自分を振り返り、見直すチャンスなんだ。
けれども、アタマの人で自分の都合よく解釈したい人は、「ストレス」を生み出した自分の価値観に目を向けずに、「他人」や「環境」に不満をぶつけるだけなんだよね。
それで「ストレス解消」と「ストレス貯蓄」を、ずっと繰り返して死んでいく。
もちろん、人間だから不満を感じることはありますよ。
八つ当たりしちゃうことも、ありますよ。
不機嫌になって、拗ねちゃうことも、ありますよ。
けどね、そういうことしながらも、
「やっぱり、おれも反省する部分があるかも?」
ってちょっとずつでも自分を省みることをしていくと、徐々に自分というものが見えてくるのです。
そして「要らない価値観」つまり「思い込み」を、薄皮をはぐように、手放していく。
そうやってはじめて、だんだんと自分の中心に出会えるようになっていく。
で、「やりたいこと」ってのは、自分の中心にしかないんだよね。
というか、自分の真ん中にある欲求をかなえないと、深く満足できないんだよ。
その「自分の真ん中」っていうのが、ハラなんだよ。
欲求のいちばん表面にあるのが、「ストレス解消」ってことね。
これはアタマの欲求。
で、ストレスを解消してスッキリしたあとに、また同じ価値観を握りしめていれば、同じストレスを感じる。
だから、スッキリしたあとが大事で、
「なぜ、自分はあの出来事に怒ったのだろう」
「どうして、あれを不安に感じたんだろう」
「なんで、あいつが嫌いなんだろう」
というふうに自分を見つめていくことで、さらに自分の奥深くに入ることができる。
すると、もうひとつ深い「やりたいこと」に出会う。
で、それをやろうとすると、そこに「ストレス」がある。
それを見つめながら、自分の「要らない思い込み」を見つけて手放す。
すると、また一段階、自分の奥に到達することができる。
そうやって、どこまでもどこまでも自分に出会っていく旅路。
それが「生きる」ということなんじゃないかと、おぜっきーは考えている。
「やりたいこと」は、深く入れば入るほど、静けさに満ちている。
ただ、そこに息を吸うように自然にたたずんでいる欲求。
「渇望」のような粗さは微塵もない。
それはまるで、海の表面が荒れ狂っていても、海の底はいつでも静かであることに似ている。
だから「やりたいことをやろう」という同じフレーズも、誰が言うかによって、その深さがまったく違ってしまう。
あなたは、今回の人生で、どこまで自分と出会っただろうか。
ぼくはまだ、自分を1%も知らないと感じる。
この果てなき「ハラ」の探求。
これほど面白いことはない。
「やりたいことが分からない」というあなた。
それは、「やりたいこと」をアタマで捉えているからなんだ。
つまり、どこかに「損得」の価値観が入っている。
それを捨ててカラダで感じることを大切にし、ハラの価値観にシフトしてきたとき、ゆっくりとゆっくりと「奥の自分」「底の自分」と出会う。
そして、化石を掘るように丁寧に、「余計な思い込み」を排除していくと、そこに「やりたいこと」が浮かびあがってくるだろう。
もし、そんなことに興味があるのなら、ぜひこれを読んでみてほしい↓