「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「分かってほしい」が「苦労」を生み出している。

苦労しているから、それを「分かってほし」くなるんじゃないんだよね。

 
 
ぼくらは「分かってほしい」から、そのために「苦労」を生み出すんだ。 
  
 
 
 
ぼくらは遊んでいて愉しいとき、「分かってほしい」とは思わない。 
 
 
「こんなに愉しいんだよ、分かってよ!」 
 
「こんなにサボってるのに、分かってよ!」 
 
「私がこんなに遊んでるの、知ってるの?」
 
 
じゃ、おかしいwww 
 
 
やっぱり、 
 
「こんなに、苦しくてつらくて、でも頑張ってる私を分かってよ!」 
 
なほうがしっくりくるわけ。 
 
 
 
で、これ一般的には 「苦しい」という状況があって、だからそれを「分かってほしい」っていうふうに考えられてるんだよね。 
 
 
 
けれどもハラ的に考えていくと、実は先に「分かってほしい」という気持ちがあって、その気持ちが「苦労」を生み出ししてるんだ。 
 
 
「分かってほしい」という思いの奥(ウラ)には、何があると思う? 
 
 
それは 
 
「私は正しい」 
 
っていう思いなんだよ。 
 
 
私の考えは、正しい。 
 
私の価値観は、正しい。
 
私のあり方は、正しい。 
 
 
苦しい人は、どうしてもそれを「分かってほしい」のね。 
 
 
で、なんでそんなにも「分かってもらう」ことに執着するかと言えば「私は(存在として)間違っているのでは?」っていう不安があるんだね。 
 
 
その反動として、 
 
「私は正しい」 
 
を主張したくなり、そのツールとして「苦労」を使っているんだよ。 
 
 
なぜならエゴの世界では、「愉しさ」や「幸せ」では「分かってもらえない」からね。 
 
 
だから「苦しむ」ことで、「分かってもらう」、つまり同情してもらうという体験をしたがるんだよね。 
 
 
 
だから、「分かってほしい」がなくならないうちは、「苦しみ」はなくならない。 
 
 
むしろ、「分かってもらいたい」人にとって、「苦しみ」がなくなったら困っちゃうから。
 
ちゃーんと「苦しみ」をこしらえて、「わかってくれ!」って叫びたいんだよね。
 
 
 
 
そいで、おぜっきーのハラから伝えたいことは、
 
「分かってもらうのは無理!」
 
ってことね。
 
 
 
とくに、才能がある人ほど分かってもらえないよ。
 
 
才能がある=人と感性が違う=分かってもらえない、
 
ってことなの。
 
 
そう、個性が強ければ強いほど分かってもらうのは無理に決まってるよね。
 
 
 
でも逆に考えれば、
 
分かってもらえない=人と感性が違う=すげーチャンス!
 
ってことなんだよね。
 
 
 
「分かってもらえない」ってことは、あなたの感性は、「あの人」にとって「未知」ってことなんだよ。
 
 
で、「未知」ってことは、すげー「魅力」になる可能性を秘めているんだ。
 
 
だから、その魅力が伝われば、「分かってもらえない」はめっちゃ武器になるんだよ。
 
 
 
でも「分かってもらえない」なら伝わらないじゃん、って?
 
 
 
ううん、それは違う。
 
 
ここが面白いところでね、ぼくらの作品や商品、サービス、プロダクトは「分かってほしい」という気持ちが入れば入るほど質が下がるんだよね。
 
「なんで分かってくれないの」
 
「どうせ分かってくれないし」
 
「どうして俺の素晴らしさが分からないんだ!」
 
とか思いながら作ってる商品とかイヤじゃん?www
 
 
 
それがね、ここがまたパラドキシリカルな部分なんだけど、「分かってほしい」がなくなって純粋な思いで作れば作るほど、「分かってもらえる」モノやサービスができるんだよね。
 
 
これって、どういうことかっていうと、
 
「分かってほしい」がなくなる
 
=「私は正しい」(の主張)がなくなる
 
=「喜んでもらいたい」が出てくる
 
ってことなんだよね。
 
 
そうなると「分かってもらえる」モノができちゃうし、自分という存在じたいも「わかってもらえる」ようになるんだよね。
 
 
ほんと、独特な論理になってるから、ここに気づけないと、ずーっと苦しいんだよね。
 
 
これは商売だけなじゃく、夫婦関係にも当てはまると思うから、夫婦関係がうまくいってない人は、
 
「わかってほしい」
 
が大きくなりすぎてないか見直してみるといいかもよ♪