「やる気」がなくなってからがホンモノなのかもしれない。
「やる気」に満ち溢れているとき、案外アタマ的になっている。
「やる気」が横溢しているとき、けっこう自分勝手だったりする。
「やる気」が充満しているとき、目の前の人を大切にできてなかったりする。
ハラの思いに従って行動するとき、そこには「やる気」というのは存在しない。
ハラは、当たり前と思うことを、ただ淡々と実行するだけだ。
なぜなら、ハラには「できる」という確信しかないからだ。
ぼくらが呼吸をするのに、「やる気」が必要だろうか?
ぼくらが食事をするのに、「やる気」が必要だろうか?
ぼくらが歩くとき、「やる気」が必要だろうか?
否!
それは「当たり前」のごとく実行される。
なぜ、行動に「やる気」を必要とするのか。
それは「できないかもしれない」という恐怖があるからだ。
その恐怖を見ないようにするための心理のカラクリが、「やる気」なのだ。
現代社会では、意図的にぼくらのパワーやエネルギーが削がれるようになっている。
そして、「不安」というエネルギーでコントロールされているのだ。
たとえば、
「不安をモチベーションにする」とか
「やる気があるのはいいこと」とか
「モチベーションを高める」とか
やる気マンマンのアタマ状態が素晴らしい状態であるかのように喧伝されている。
そして、ぼくらはマンマとその仕組みの上に乗っている。
そして、あなたが「不安」を「やる気」に変え、モチベーションを高めることで、アタマ的エゴ的資本主義社会をさらに強化し、固定してしまっている。
もちろん、資本主義に賛成し、それを礼賛するのなら、それで構わない。
けれどももし、ハラ的な幸福主義を実現したいというのなら、「やる気」というのは不要なのである。
人類全員の「やる気」がなくなったら、争いはなくなる。
「やる気」がないから、誰も自分の正しさを主張しない。
「いいんじゃない?それも」と、なまけている。
そもそも、草にも花にも動物にも、「やる気」など存在しない。
ただ、自然にたゆたって生きている。
自然と調和し、のんびりしている。
そこに「人生の意義」など存在しない。
一瞬一瞬、いま、ここで呼吸すること喜びなのだ。
ぼくらはその喜びを忘れた瞬間に、人生において「なにかを成し遂げなければいけない」というような強迫観念に襲われる。
「有意義に生きねばならない」という幻想にさいなまれる。
しかし、人間の考える「有意義」など、知れたもので、大宇宙のはたらきから観れば、ほんのハナクソ以下の出来事なのだ。
そういった観点から見たとき、「やる気」というのは調和にとって邪魔でしかない。
もし「幸福主義」がこの世に広まることを願うのなら、いま「やる気マンマン」な人は注意をしたほうがいいかもしれない。
そして今「やる気」がどうしても出てこない人は、今がベストな状態なのだと、覚えておいてほしい。