「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

もう「幸せなフリ」なんてしなくていい。~悲しみをごまかすための幸せなら要らない~

あるレベルの人は、不幸を演じている。

 

悲劇のヒロインになりたがる。

 

「被害者」の立場を選択して、交渉を有利に運ぼうとする。

 

 

そのレベルを抜けると、今度は「不幸な人」をdisりたくなる。

 

「私は、そのレベルはもう抜けましたけど?」

 

「まだ被害者フェーズやってるの?」

 

「幸せになる方法、教えてあげようか?」

 

という顔をしたがる。

 

 

そこではなぜだか、「悲劇のヒロイン」から脱出したことをアピールすることが求められらしい。

 

「以前は、〇〇で××でしたけど、今はこんなに幸せです♥」

 

「もう幸せすぎて、悩みなんてありません」

 

「超たのしく人生いきてまーす」

 

 

という感じで、不思議と幸せアピールをしたくなるらしい。

 

 

しかし、なぜアピールしたいのか、いやアピールしなきゃならんのかということを見ていくと、

 

「ほんとにコレで幸せなのかな?」

 

という不安がどこかにある。

 

 

「みんながいってる”幸せ”とかいうのを掴んだ気がするんですけど、これでよろしいのでしょうか?」

 

と確認したい気分のとき、ぼくらは「アピール」に精を出す。

 

 

ただ、ぼくは思うんだけれど、「幸せ」に際限なんてないんだ。

 

 

ぼくらは、どこまでも幸せになれる。

 

いつでも、幸せになり続けることができる。

 

 

「不幸という段階は抜けまして、いまは幸せステージを堪能しております」

 

なんて生ぬるいものじゃないんだ。

 

 

幸せとは、自分をストイックに甘やかし続けるプロセスなんだと思うんだよね。

 

 

ぼく自身、2005年に「幸せ」みたいなものを掴んでから、ずっと「幸せ」を探求してきたんだけど、どんどん幸せ感が増えてるからね。

 

 

2005年の時点でも

 

「充分に幸せだ」

 

って感じてた。

 

 

それが、2009年に会社をやめて整体師になり、

 

「おお、ぼくは縛られていたんだ。ほんとうの幸せはここにあったか!」と思った。

 

 

でも、まだまだぼくは縛られていて、それが結婚と子供が生まれたのを機に、ドバっと出てきた。

 

で、

 

「ぐは!まだまだ縛られていたのか!」

 

と思い知らされた。

 

 

で、5年くらいかけて、また自分を自由にしていき、さらに幸せ感が増してきた。

 

 

けれども、今度はまだまだ仕事の面で縛られていることが見えてきた。

 

それで、今は「仕事のあり方」をさらに自由にしようと試みている←イマココ

 

 

何が言いたいかって、

 

「幸せには際限がない」

 

ってことなんです。

 

 

ぼくらは、思った以上に縛られているのよ。

 

だから

 

「ブロックが外れた」とか

 

「トラウマから解放された」とか

 

「思い込みを捨てた」とか

 

言っても、そうそうなくならないのよね。

 

 

で、幸せアピールしてる人も(←おれのことね)、そのことには薄々、気が付いてるわけ。

 

だから出来事によって、かなしみを感じたり、怒りを感じたり、寂しさを感じたりしてる。

 

 

でもさ、幸せアピールしてると、その豊かな感情がどっかいっちゃうんだよね。

 

「わたくしは、もう幸せでございますから、感情も安定しております」

 

「動じない心を手に入れたのでございます」

 

「ぶれない軸がありますでございます」

 

みたいな感じで悟りきったフリしても、なんか恥ずかしいだけじゃん?

 

 

それよりは、泣いて怒って笑ってのほうが、なんか愉しいと思うんだよね。

 

人間らしくてさ。

 

 

だから、おぜっきーは、もっともっと自分を見つめていって、さらなる幸せの高みを見つけてみたいと思っているよ。

 

もっと深い幸せの世界は、どんなものなのか見てみたいんだ。

 

 

そのためには「幸せアピール」を減らしていくことなんだよね。

 

「幸せなフリ」で、体験を味わい損ねたら本末転倒だからね。